2022.7.17 聖霊降臨節第7主日礼拝
詩編 第15篇1〜5節
コロサイの信徒への手紙 第1章24〜29節
ルカによる福音書 第10章38〜42節
                          

「ただ一つ必要なこと」

 本日のところの最初の節に、一行が歩いていくうちに、主イエスある村にお入りになったとあります。そこにマルタとマリアという姉妹がおりまして、マルタがおそらくお姉さんが、そのマルタという女性が主イエスを家に迎え入れたとあります。マルタが、そのイエス・キリストの一行をもてなすことに非常に忙しくしていた。その一方で、妹のマリアは主イエスの話を主の足元に座って聞き入っていたとあります。この二人の姿は対照的にここで描かれています。マルタがイエス・キリストとその弟子のもてなしをするために、大変忙しく働いていた。しかし、妹が何もしないでイエス・キリストの話に聴きいっている。姉のマルタはそのことに不満を抱いたのです。私が一生懸命働いているのに、妹は、ただ主のそばで話を聞いているだけだと、手伝ってくれるようにおっしゃってくださいと。マルタが不満を述べる。そのことに対して、主イエスは、ちょっとお困りになって、困惑されて、諭されるのです。41節ですが、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と。

 ここで出てまいります「もてなし」という言葉は、ギリシャ語では「ディアコニア」という言葉です。これは執事という言葉。長老と執事の執事にあたる言葉であります。わたしたち日本キリスト教会は改革長老派の教会です。わたしたちが大切にしてきておりますのは、御言葉によって改革され続けるということと、神様と隣人に対する愛の奉仕をしていく。そのことを大切にしてまいりました。どちらがより大切だということでありません。どちらも大切なのです。マルタとマリアのこの姿。この二人のあり方は、どちらが一方が大切だということではありません。このイエス・キリストがおっしゃった言葉、42節ありますけれども、「しかし、必要なことはただ一つのことだけである。マリアの良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とありますけれども、ここのところを、マルタよりもマリアの方がより良い働きをしている。というふうに読んではならないと思います。どちらも大切なことなのです。イエス・キリストへの愛に基づいて、一生懸命に奉仕をしている立ち働いている、このマルタの奉仕の業。それはどうでもいいということではありません。そのことも御言葉に聴くことと同じように大切なことなのです。わたしたちが今日の御言葉において、聴かなければならないことの中心は、どちらがより大切だという単純な話ではないのです。  41節をご覧ください。「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。』」とあります。彼女は自分ばかりが重荷を背負っている。妹は何もしない。そういうことに不満を持っていたのです。それによって彼女は心を乱していたのです。わたしたちも、なぜ自分だけがこんな目に負わなければならないのか。他の人よりも自分の方が重荷を負わされていると、つい感じてしまうことがあるのです。そうならないようにするために、大切なこと。それが、御言葉に聴くことだと。イエス・キリストはここでおっしゃっているのです。必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。み言葉に聴くこと。そのことによって、わたしたちが喜んで教会の業を自分から進んで奉仕することができるようにされるのです。

 「主に従う」ということは御言葉に聴くことです。この聖書の他のところでイエス・キリストは、神の国は、幼子のような、幼子のためのものだと。いうところがあります。幼子をこちらに来させなさい、ということを主イエスはおっしゃいました。主イエス・キリストに祝福してもらおうと思って、親たちが赤ん坊までもイエス・キリストのところに連れて行こうとしたときに、弟子たちがそのことを叱った。それに対してイエス・キリストは、子どもたちを自由に来させなさいとおっしゃいました。神の国はこのような者たちのものであると、イエス・キリストがおっしゃったのです。赤ん坊や幼子は、親の、大人たちの援助がなければ、助けがなければ生きていくことができません。自分の力により頼むことができない者たちです。空の手で大人たちの愛情、助けを受けるだけです。そのようにしてわたしたちは、神様に信頼し、神様の御言葉、神の国の福音を聴くことによって、わたしたちは神の救いにあずかることができるのです。神の国の福音、神の国というのは神のご支配ということです。この神のご支配は、イエス・キリストの十字架によって、実現されました。この神の国の福音、神の恵みのご支配の到来を告げる言葉。それが福音でありますけれども、マリアはその言葉に耳を幼子のように傾けていたのです。

 前回読みましたが、半殺しの目に遭った人を介抱し、隣人となってくれたその良いサマリア人のように、あなたも行って同じようにしなさい、とキリストはお命じになりました。わたしたちは主の奉仕の業において、つい不平不満をつぶやいてしまう者たちでありますけれども、しかし、マリアのようにイエス・キリストの膝元で、幼子のように、この神の国の福音をしっかりと聴くことができれば、この良いサマリア人の喩えの話の最後のところにありました、37節の後半ですが、「イエスは言われた。『行ってあなたも同じようにしなさい。』」との主の励ましを受けることができるのです。わたしたちはこれからも、主の御言葉にしっかりと聴くことによって、喜んで自分から進んで御用のために、奉仕することができる者とさせていただけるように祈り求めてまいりましょう。

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