2022.7.3 聖霊降臨節第5主日 教会創立記念・召天者記念礼拝
詩編 第100章1〜5節
ローマの信徒への手紙 第14章7〜9節
                          

「わたしたちは主のもの」

 本日の礼拝は、教会創立記念・召天者記念礼拝として、お献げしております。

 わたしたちは何のために召天者を記念して、この礼拝をお献げするのでしょうか。天の父なる神様が、亡くなった方々の生前の人生を守り導いてくださり、関わりを持ってくださったということ。そして、亡くなった方々が、主イエス・キリストと共にある平安を与えられているということに感謝し、神様をほめたたえるために、この礼拝をお献げしているのです。そして同時に、わたしたち、この世を今生きている者。そのわたしたちのためにも、この礼拝が献げられています。わたしたちはいずれ必ずこの地上の生涯を終えるときが来る。わたしたちがこの地上の生涯を終える日、その最後を迎えるための備えをしていく。そのことのためにもわたしたちは、この召天者記念礼拝をお献げしているのです。わたしたちが、いずれ迎える死に対して、必要以上に恐れを抱くことなく、死んだ後もキリストと共にあるというその神様のお約束を信じて、希望を持ってこの困難なことの多い、苦しいこともあるこの地上の生涯を生きていくということ、そして、わたしたちが死ぬときの備えを、今から感謝を持ってしていくことができるように、わたしたちはこの礼拝をお献げしているのです。

 わたしたちより先に召された人たちは、キリストの御許で、平安のうちにおられます。その約束がわたしたちにも与えられております。そのようなことを申しますときに、この世では様々な疑問を持つ人たちもおります。宗教、神というものは、人間が死の恐怖を和らげるために、作り出したものではないか、という人たちがいます。人間の都合によって、神を作り出したのではないか。死後の世界を美しいものに見せて、死の恐怖を免れさせるために、宗教というもの、神というものをつくり出したのではないか、という人たちもいます。しかし、そのことの証明をすることは、そもそもできません。なぜなら、これは信仰に関わることだからです。信仰というものは、実際に目に見えることで証明できるようなものではありません。今わたしたちが、どのように知恵を尽くしても、それを証明することはできないのです。わたしたちが死んだ後どうなるかということが、証明されていて、そのことを見たら信じよう、ということは、もうすでに信仰ではないのです。証明はされていないけれども、そのことを信じる。そのことにわたしたちの人生を賭ける。これは決断です。しかし、その決断、賭けにおいては、何の根拠もないものではありません。「鰯の頭も信心から」ということわざがありますけれども、そういうことではないのです。その根拠となってくださったのが、イエス・キリストなのです。9節をご覧いただきたいのですけれども、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」とパウロはローマの信徒への手紙で記しています。キリストが死んで、そして生きた、とあります。普通、わたしたちがこのようなこと文章を書こうとするときに、生きるということを先にするのではないでしょうか。生きた後に死が来るのです。

 それでは、なぜここで、キリストが死に、そして生きたということをパウロは語っているのでしょうか。順序が逆のような気がいたします。しかし、これは、主イエス・キリストが十字架で死なれ、そして三日後に復活なさったということ。そのことを表しているのです。キリストが死んでくださった。そして、復活してくださったということ。その死というのは、わたしたちの深い罪が赦されるためだったのです。わたしたちは、生きていく中で、多くの罪を犯してしまいます。わたしたち一人一人の罪。そして、全人類の罪を赦してくださるために、イエス・キリストは、わたしたちの想像をはるかに超える大きな苦しみを味わわれて、十字架で死なれ、そして三日後に復活なさったです。この十字架の刑罰は、多くの罪を犯してきたわたしたち、そして人類全ての者が、本来であれば味わうべきその刑罰の苦しみでありました。それを、イエス・キリスト一人が背負われて、わたしたちの代わりに、十字架にかけられ、死なれたのです。それはわたしたち人類全ての救いのためでありました。イエス・キリストは、天の父なる神様の愛する独り子であられます。わたしたち全ての者たちのために、天の父なる神様は大きな犠牲を払ってくださったのです。それほどまでに、神様はわたしたちを愛し、わたしたちに深い関わりを持とうとしておられます。そのことが、わたしたちが死の恐れを超えて、この地上を希望を持って生きていくことの根拠であります。神様は、目には見えないお方でありますけれども、そのことが神様のわたしたちに対する深い関わり、神様の愛を信じることができる根拠です。イエス・キリストがわたしたちの罪を償うために、そのようにして十字架にかかって死なれ、復活なさったという、そのこと。そのことこそが、わたしたちが神様を信じる根拠となっているのです。 そのようにわたしたちとどこまでも深い関わりを持ってくださる神様、そのもとで、わたしたちが生き、そして死ぬ。キリストのものとされていることにおいてこそ、本当に希望のある幸いな人生が、そして死があるのではないでしょうか。わたしたちの人生は、そのことを信じて、神様をほめたたえるためにあるのです。神様は、わたしたちが神様の手から離れようとするそのときにも、徹底的にわたしたちと関わってくださり、恵みの御手を差し伸べ続けていてくださいます。その神様を信じて、わたしたちがこの神様のために生きるという決断。それが信仰です。そこにこそ、生きるにも死ぬにも、わたしたちは主のものですという本当に幸いな人生があるのです。そのことを信じて、希望を持って歩んでいけるように、祈り求めてまいりたいと思うのです。

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