2022.6.19 聖霊降臨節第3主日礼拝
ゼカリヤ書 12章10〜11節、13章1節
ガラテヤの信徒への手紙 3章26〜29節
ルカによる福音書 第9章18〜27節
                          

「イエスは救い主」

 「イエス・キリストとはどういう御方なのか」「何者なのか」「神様なのか、それとも立派な人間の一人に過ぎなかったのか」という問いは、イエス・キリストがこの世にお出でになって以来、実に多くの人たちが抱いてきた問いではないでしょうか。この問いにどう答えるかということがわたしたちの信仰にとってどんなに大切なことなのかを御言葉に聴いてまいりたいと思います。

 本日の箇所、ルカによる福音書9章18節以下には、弟子たちが、この問いを、主イエスご自身から問われたことが語られています。それが20節の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いです。主イエスが弟子たちにそのように問うたのです。つまり、「主イエスとは何者か」という問いは、弟子たちが、また私たちが抱く疑問であると同時に、主イエスご自身から問われることなのです。私たちが主イエスから「あなたはわたしを何者だと言うのか」と逆に問われるのです。主イエスからのこの問いを意識することが、信仰への大きな一歩です。そしてこの問いにどう答えるかが信仰の決断です。弟子たちはここでまさにその信仰の決断を求められたのです。

 21節以下には、主イエスが弟子たちに、「このことをだれにも話さないように」とお命じになったことが語られています。「このこと」とは、「主イエスとは何者か」という問いの答え、主イエスは、神からのメシア、神のキリスト、救い主であられることです。そして次の22節には、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という、いわゆる受難の予告が語られています。

 20節で、ペトロは弟子たちを代表して、主イエスの問いに答えて「主イエスこそ神からのメシア、神のキリスト、救い主です」とお答えしました。それはまさにペトロと弟子たちの信仰告白です。それは主イエスとは何者かという問いの正しい答えです。しかし、十分な答えではないのです。神からのメシア、神のキリスト、救い主としての御業がどのようにしてなされるのか、そこまでを知らなければ、主イエスとは何者かを正しく知ったことにはなりません。主イエスは、私たちのために多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することによって、救いを実現して下さる方なのです。主イエスが神からのメシア、神のキリストであることが分かるとは、このことが分かることなのです。

 23節には「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。主イエスに従う者、弟子、信仰者として生きるための心構えを教えているお言葉です。それを18節以下の文脈の中で読むならば、主イエスご自身から「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問われ、「あなたこそ神からのメシア、神のキリスト、救い主です」と告白した者は、その救い主イエスに従い、その後について行く者となる、ということです。

 それは大変なことだ、そんなこととても出来そうにない、と私たちは思います。けれども主イエスは24節で「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言っておられます。つまり自分を捨て、十字架を背負って主イエスに従うことは、本当の意味で自分の命を救うことなのです。なぜならば、この主イエスに従って共に歩むところでこそ、私たちの全ての罪を引き受けて多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして三日目に復活して下さった救い主と出会い、その救い主が私たちを愛していて下さることを知ることができるからです。主イエスに従っていくことの中でこそ私たちは、主イエスとは何者かを知ることができます。そして主イエスとは何者かを知ることによって、本当の自分として新しく生き始めることができるのです。

 本日の箇所に即して言えば、自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくことの中でこそ、私たちのために多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして三日目に復活して下さった救い主を知ることができるのです。この救い主を知ることによって私たちは、本当の自分を見出して新しく生き始めることができるのです。本当の自分を見出すとは、主イエスの十字架の死によって自分の罪が赦されていることを知り、主イエスの復活によって自分にも死に勝利する新しい命の約束が与えられていることを知ることです。それは、私たちのために十字架を背負い、苦しみを受けて死んで下さり、そして父なる神様によって復活の命を与えられた主イエス・キリストに従っていくことの中でこそそれは与えられるのです。

 27節には「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とあります。あなたがたの中には、生きている間に神の国を見ることができる者がいる、という主イエスの約束、祝福の言葉です。これは通常、弟子たちが生きている間にも主イエスの再臨による世の終わりが来て、神の国が完成すると考えられていたことの現れとして読まれます。しかし必ずしもそう読まなくてもよいのです。私たちだって、生きて神の国を見ることができます。自分の思いを実現することによって命を得ようとする思いを捨て、日々自分の十字架を背負って、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けてくださった主イエスに従って生きる中で、私たちは、主イエスの十字架と復活によって実現している神様の恵みのご支配、神の国を確かに見るのです。

 毎月、月の初めにあずかる聖餐も、私たちがこの世の歩みの中で神の国を垣間見、その恵みを味わうひとときです。「あなたは私を何者だと言うのか」と問いかけることによって「あなたこそ神からのメシア、神のキリスト、救い主です」という信仰告白へと私たちを導き、自分の十字架を背負って従う者として下さる主イエスは、み言葉と聖餐の恵みによって常に私たちを養い、神の国を望み見つつ生きる者としてくださるのです。

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