2022.4.10 受難の主日礼拝
イザヤ書 第50章4〜9a節
フィリピの信徒への手紙 第2章5〜11節
ルカによる福音書 第23章44〜49節
                          

「御手にゆだねます」

 きょうから受難週に入ります。

 ルカによる福音書24章46節に十字架の死の間際にイエス・キリストが「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」とおっしゃったとあります。他の聖書の箇所では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われたとあります。これは旧約聖書の詩編22篇にある言葉です。神様に見捨てられる。これ以上の絶望はないでしょう。イエス・キリストは絶望の極みで死なれました。主イエスは全人類の深い罪を背負って十字架で死なれたのです。そのような大きな絶望の中で、イエス・キリストがわたしたちの罪を背負って、その償いのために死なれました。そのことは、わたしたちの罪がいかに大きいものかということを表しております。

 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」これは、ここだけを読みますと、わたしたちが死の間際に「わたしの霊を、魂を神様の御手に委ねます」とそのように神様に言って、死ぬことができたら、どんなに良いことだろうかと思ってしまうのです。ここだけをさらっと見ますと、何か主イエスが平安のうちに全てを神様に委ねて、死んでいかれたように思えてしまいます。そのようにわたしたちも死ぬことができたらどんなにいいことだろうかと思います。しかし、少し考えれば、わたしたちがそのようなことができそうもないということに気がつきます。おそらく死の間際になったときに、死にたくないとジタバタしてしまうのではないか。そして、主イエスは、神様の子であられるからこういうことができるのだとわたしたちは考えてしまうのではないでしょうか。しかし、わたしたちはこの聖書の箇所を注意深く見るときに、決してそのように、主イエスが平安のうちに十字架の上で死なれたのではないということがわかります。46節の最初の言葉ですが、「イエスは大声で叫ばれた。」とあります。大声で叫ぶ。叫ぶという言葉。これだけでも大きな声で話すという意味です。さらに、「大声で」とここにありますように、大音声でイエス・キリストは神様に叫ばれたのです。これは決して平安のうちに、イエス・キリストが息を引き取られたということを意味しません。イエス・キリストが死なれるときに、44節にありますけれども、「全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」とあります。これはわたしたち人間の罪の深さを表しています。何も見えない真っ暗闇の世界。神様から見捨てられたと思われるほどの絶望的な、その闇。その闇の真っ只中に、イエス様は十字架の上におられたのです。45節に「太陽は光を失っていた。」とありますけれども、この太陽の光を失うということは、旧約聖書では神の怒りを意味いたします。イエス・キリストを十字架にかけてしまったわたしたち人間、その深い罪を犯した人間を、神様は大変お怒りになったということです。その真っ暗闇の絶望的なその真っ只中から、イエス・キリストは、神様に向かって、大きな声を上げられたのです。「わたしの霊を御手にゆだねます。」とおっしゃって主イエスは、父なる神様に叫ばれたのです。わたしたち罪深い人間に怒り、見放されようとされたその父なる神様に向かって、大きな声で叫び、言わば神様を呼び戻してくださったのです。深い罪を犯したわたしたちのために、神様に執り成すために、イエス・キリストは、大きな声で叫ばれました。この叫びの後に、イエス・キリストは死なれたのです。その有様を見て、47節にありますけれども、「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった。』と言って、神を賛美した。」とあります。この百人隊長は、ローマの兵隊たちを束ねる隊長です。百人の兵隊を束ねる隊長です。この有様を見てこの百人隊長が、「本当にこの人は、正しい人だった。」と言ったというのです。「この人は無実だ」とこの百人隊長は思ったのです。そして言葉に出したのです。そして「神を賛美した。」とあります。この百人隊長はローマ人です。イスラエル人ではありません。神を信じない外国の人です。その人が、このイエス・キリストの御姿を見て、神を賛美したということです。神を礼拝したと言ってもいいと思います。そのように異邦人のこの隊長をもそのようにさせる出来事がこの十字架の上で起こったのです。そして48節にありますが、「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」とあります。この見物に集まっていた群衆というのは、イエスを十字架につけろと、要求した人たちです。その人たちが何と、胸を打ちながら帰っていったというのです。自分たちのしてしまったことを悔いて、帰って行ったのです。「胸を打ちながら」というのは、そのことを意味しています。イエス・キリストが十字架で亡くなることによって、このように大きな転換、そのような出来事が起こっているのです。このときから罪の闇の世界が終わって、新しい世界が開かれたのです。

 本来であれば、わたしたちが十字架にかけられてしかるべきなのに、わたしたちに代わって、イエス様が十字架にかけられたのです。そして、イエス・キリストが「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と、叫んでくださったことによって、わたしたちもまた、神様に様々なことを、苦しみや悲しみその他全てのことを、父なる神様の御手にゆだねて生きる道を、イエス・キリストが開いてくださったのです。その大きな出来事が、約2000年前のイスラエルで起きました。それは世界の歴史を大きく変える出来事でした。実にそれはわたしたちの救いのためであったのです。

 これらのことを深く心に刻んで、きょうから始まる受難週のときを歩んでまいりましょう。

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