2022.4.3 受難節第五主日礼拝
イザヤ書 第43章16〜21節
フィリピの信徒への手紙 第3章4b〜14節
ヨハネによる福音書 第12章1〜8節
                          

「ナルドの香油」

 本日はヨハネによる福音書を中心にみ言葉に聴いていてまいりましょう。

 きょうの聖書の最初のところに、「過越祭の六日前に」とあります。この過越祭というのは、年に1回、行われるイスラエルのお祭りです。そのときに、イエス・キリストはベタニアというところに行かれました。そこは、墓からよみがえらされたラザロと、その姉妹マルタとマリアが住んでいたところです。ラザロが重い病気になって死んでしまい、マルタとマリアは悲しみのどん底の中にありましたが、イエス・キリストによって、ラザロはよみがえらされたのです。そのことに感謝して、マルタとマリアは、主イエスを自分の家に迎えて、晩餐のときを持ちました。3節に、その食事の最中に、「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。この香油、ナルドの香油ですけれども、大変高価な香油でありました。5節にありますが、「三百デナリオンで」とあります。1デナリオンが、当時の労働者の1日の賃金でありましたから、三百デナリオンというのは、現在で言えば、数百万円ということになろうかと思います。そういう大変高価な油でありました。その高価な油、それはマリアにとっては自分の全財産と言っても言い過ぎではないくらいのものだったことでしょう。それを惜しげもなくイエス・キリストの両足に注いで、その両足を自分の髪でぬぐったということです。髪は女性にとってとても大切なものです。その髪で足をぬぐう。それこそ、それは自分の愛する兄弟であるラザロをよみがえらせてくださったイエス・キリストに対する感謝の気持ち、自分の持っている全てを捧げてする献身の行為でありました。イエス・キリストへの愛に基づいたマリアの献身の行為でありました。

 その行為を見て、それを非難する人がおりました。それがイスカリオテのユダという人でした。主イエスの弟子の1人であります。後にイエスを裏切るイスカリオテのユダです。5節ですが、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」とあります。彼は会計係として、預かっていた財布のお金をごまかして自分のものにするという不正を行っていた人ではありますけれども、この彼の発言は正論だと言っていいと思います。そんな高価な香油があるのであれば、それを売って、貧しい人に施せばいいではないかとの彼の意見は、わたしたちも当然考えることです。このマリアは何百万円もするその高価な油を一瞬にして、なくしてしまうわけです。大変な浪費をしてしまったのです。

 しかし、そのような無駄な、本当に大きな浪費をしてしまった、そのマリアに対して、主イエスはこうおっしゃいます。7節ですが、「イエスは言われた。『この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取っておいたのだから。』」。「私の葬りの日のために」ということは、この1週間後、イエス・キリストが十字架にかけられて殺されてしまいますがそのことを指しています。。体に香油を塗るという行為は、死人を埋葬するときに、その腐敗を止めるためのものでした。そのことを先取りして、このようにマリアはしてくれているのだ。それを止めてはならないと主イエスはおっしゃるのです。イエス・キリストは、このマリアの真に献身的なその行為を愛情を持って喜んで、受け入れてくださったのです。わたしたちの目から見れば、本当にとんでもない浪費ということになりますけれども、マリアはそのようにして、イエス・キリストへの愛、そして献身を表したのです。イエス・キリストは、そのマリアの行いを喜んで受け入れてくださいました。そのことをわたしたちは、ここで注意深く見なければならないと思います。

   「費用対効果」という言葉がありますけれども、かけた費用に見合った効果をわたしたちは期待して、わたしたちが何かを買うとき、何かサービスに対価を支払うときは、その支払ったおカネに見合う効果、サービスが得られると考えて初めてそのおカネを払うわけですけれども、それはそういった費用対効果の考え方に全く反するような行為です。一方、この浪費ということを考えますと、イエス・キリストが十字架にかけられたという意味を、わたしたちは考えなければいけないと思います。わたしたちがそのような資格がないにもかかわらず、イエス・キリストが、罪深いわたしたちのために、罪を赦してくださるために、ご自分の命を与えてくださる。これこそ究極の意味での浪費ということではないでしょうか。わたしたちがそのようなことをしていただく値打ちは、少しもないにもかかわらず、イエス・キリストはわたしたちにご自分の命を与えてくださったのです。それこそ究極の命の浪費ということになるのではないでしょうか。わたしたちはそのキリストの愛と恵みに応えて、わたしたちもマリアのように、自分自身のすべてを献げて、イエス・キリストへの愛を示さなければならないのではないでしょうか。

 わたしたちは、教会において、それぞれの賜物に応じて奉仕をいたします。その奉仕は必ずしも立派なものではないかもしれません。拙い奉仕でありますけれども、しかしそのことをイエス・キリストは喜んで受け入れてくださるのです。ヨハネによる福音書は、このマリアの行いに教会の信仰を見ているのです。

 わたしたちが心から神様の御名を讃美し、神様に感謝するこの礼拝において、ナルドの香油によって、マリア、マルタ、ラザロの家の中が「香油の香りでいっぱいになった」ように、わたしたちのこの礼拝においても、神様によってキリストの香りがいっぱいに満ちるようにしていただきたいと願います。わたしたちはその香りを携えて、この世に出ていくのです。わたしたちが、この世でそのキリストの香りを放って、キリストの救いを証しすることができるように、祈り求めてまいりましょう。

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