2022.3.20 受難節第三主日礼拝
イザヤ書 第55章1〜9節
コリントの信徒への手紙一 第10章1〜13節
ルカによる福音書 第13章1〜9節
                          

「まことの平安」

  本日は新約聖書コリントの信徒への手紙一を中心に、み言葉に聴いて参りましょう。

 この手紙において使徒パウロは、荒れ野を旅するイスラエルの民の姿を通してわたしたちに大切なことを教えてくれています。そのイスラエルの民は、神に背き大きな罪を犯してしまいました。7節にありますが、「彼らの中のある者がしたように、偶像礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります。」これは出エジプト記にありますけれども、モーセが神の教えを聞くために山に登って、不在の間に残されたイスラエルの民が大変大きな不安に襲われ、モーセの兄弟アロンに頼んで、金の小牛を作ってもらって、それにひれ伏し、その金の小牛の前で飲み食いし、立って踊り狂ったということを示しています。奴隷の国、エジプトの国から解放してくださるという大きな恵みをいただきながら、イスラエルの民は偶像を作り、神以外のものにひれ伏すという、大変大きな罪を犯してしまったのです。そういうこともあって、彼らの中で滅ぼされるものが出てきてしまいました。それらのことは、「時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなの」だとパウロは申します。時の終わりに直面している。当時キリストを信じる人たちは、終わりの日がまもなく来ると信じていました。この世が終わり、イエス・キリストが再びこの世に来られる。それが終末、終わりの日ということです。その日には生きているわたしたちと、先に召された人たちも共に神様の前に裁かれるために立たなければならない、そういう時であります。パウロはそのことをしっかりとわきまえなさいと申します。神を信頼せず、神を試し、神に不平を言う。その者たちは滅ぼされてしまうと、パウロは厳しく、コリントの人たちに手紙で警告するのです。わたしたちも神様の救いを信頼しないで、不平をつぶやいてしまう者たちです。そのようなわたしたちが、終わりの日に神様の厳しい裁きの前に立つときに、わたしたちは無事でいられるのだろうかと大変心配してしまいます。その厳しい裁きが、どのように行われるのかということは、わたしたちには明らかにされておりません。わたしたちは、神の恵みに信頼して、その時を待ちながら、正しい道を歩まなければならないのですが、ここまでの記述を読むときに、パウロはわたしたちに大変厳しいことを言っているのではないかと考えてしまいます。わたしたちの歩みは、とても神様の裁きに耐えられるものではないのではないからです。そのように不安を覚えるわたしたちに対して、コリントの人々に対して、パウロは13節以下のことを述べます。「あなたがた襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

 わたしたちにはこの地上の生涯において、様々な試練がありますけれども、逃れる道も神様は備えてくださる、とパウロは申します。この御言葉は、世間では結構知られた箇所であります。昔からこのところは試練にあった人たちを慰めてきたところであります。ここはよく読むと、信仰者としての恵みということが、ここから読み取ることができます。逆に言えば、信仰を通してここを読まないとその真意が、パウロの真意が読み取れないのです。この13節をご覧いただくと、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。」とあります。ここが、大変大きな大事なポイントです。「神は真実な方です。」と信じるからこそ、わたしたちは試練に耐えられるし、神様が逃れる道を、困難から逃れる道を備えていてくださるということを信じることができるのです。

 それでは、「神様が真実なお方である」とはどういうことなのでしょうか。神様がわたしたちを救うと約束されたことを、神様はしっかりと忠実にその約束に従ってくださる。そのことが、神様の真実です。神様が真実なお方であるということは、そのことによって示されています。もっと具体的に申しますならば、天の父なる神様が、愛する御子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださり、わたしたちの罪の赦しのため、わたしたちの救いのために、御子を十字架にかけられ、復活させてくださったということ。神様が真実なお方であるということは、そのことにおいてしっかりと示されているのです。その神様の真実、神様が真実なお方であるということをしっかりと信じることによって、わたしたちは試練に耐えられるのです。そして、わたしたちに逃れる道を備えていてくださるということを信じることができます。そのことが、キリストを信じるわたしたちにとってのまことの平安であり、慰めであります。先ほど、終わりの日にはわたしたちが神の裁きの前に、立たされるのだということを申しましたけれども、わたしたちが神の教えを守ろうとしても、わたしたちに罪がまだ残っておりますので、どうしても神の教えを完璧に守ることはできないのです。わたしたちは、そのときに大きな困難を覚えるのでありますけれども、真実なお方である神様を信じるときに、わたしたちがその困難を乗り越える力が与えられ、逃れる道をも備えられているということ。そのことをわたしたちは信じることができるのです。そのことが、わたしたちにとってのこの地上を、困難な苦しみが多い地上を生きる上でのまことの平安です。イスラエルの民は、約束の土地、乳と蜜の流れる、その約束の土地への困難な旅、40年間のその苦難に満ちた旅で多くの罪を犯してしまい、神様から懲らしめられましたけれども、約束の土地に到着することができました。そのイスラエルの民のその歩みを通して、わたしたちにこの地上の困難な中を生きる上での大きな励ましと慰めが与えられるのです。そのことをしっかりと心に刻み、感謝して歩むことができるように、祈り求めてまいりたいと思うのであります。

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