2022.3.13 主日礼拝
出エジプト記 第34章29〜35節
コリントの信徒への手紙二 第3章12〜4章2節
ルカによる福音書 第9章28〜36節
                          

「栄光に輝くイエス」

本日はルカによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 きょうの聖書のところで、主イエス・キリストは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子を連れて山に登られました。そしてそこで、主イエスのお姿が変わったのです。29節に「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。32節には「栄光に輝くイエス」とあります。栄光に輝く主イエスのお姿がここに示され、三人の弟子たちはそれを目撃したのです。この出来事は「山上の変貌」と呼ばれています。主イエスの顔とお姿が変わった、変貌したのです。しかしこの変貌は、まったく別の人になったとか、これまでとは似ても似つかない姿になったというようなことではありません。要するに、主イエスの栄光のお姿が現されたということです。神様の独り子、救い主キリストとしての、主イエス本来の栄光がここでこの弟子たちに示されたのです。

 ペトロたちは、栄光に輝く主イエスのお姿を見、モーセとエリヤが主イエスと語り合っているのを見ました。モーセとエリヤが話を終えて離れ去っていこうとするのを見たペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。それは「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とありますが、しかし彼の思いは明白です。ペトロは、栄光に輝く主イエスのお姿と、モーセとエリヤが主イエスと共にいる、というこの素晴らしい出来事を、いつまでもここに留めておきたいと思ったのです。主イエスとモーセとエリヤのために小屋を三つ建てて、そこに入ってもらおう。そうすれば、これからもここに来ることによっていつでもこの素晴らしい栄光の姿を見ることができる。他の弟子たちも連れて来て見せることができる。さらに多くの人々に栄光に輝く主イエスのお姿を見せることができる。小屋があればそれができるという所がかなりこっけいな話ですけれども、ペトロは本気でそう思ったのです。

 34節には、「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」とあります。栄光に輝く三人の姿を、雲が覆い隠していったのです。雲というのは、旧約聖書においては、神様が人間にご自身を現し、出会おうとなさる時に現れるものです。それは神様が出会ってくださることのしるしであると同時に、その神様のお姿を人間の目からは隠す働きもしています。人間は、神様と出会うときに、神様のお姿を直接見るのではなくて、雲を見るのです。ここで、雲が現れ、その雲の中から神様の御声が聞えました。その雲によって、栄光に輝く三人の姿は隠されていきました。このことは、ペトロの言葉に対する神様の答えであると言うことができます。ペトロは、小屋を三つ建てることによって、主イエスの栄光のお姿を、そしてモーセとエリヤの姿をその場に留め、それを人々が見ることができるようにしたいと願ったのです。しかし、その栄光のお姿は雲に隠されて見えなくなった。神様は、主イエスの栄光のお姿を人々が直接見ることを拒まれたのです。栄光のお姿を見るのは、このとき、この三人の弟子だけに与えられた特別の体験です。それをいつでも誰でも見ることができるようなものにすることは出来ないのです。

 しかし、栄光のお姿が雲に包まれていく中で、神様の声が響きました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と神様はおっしゃったのです。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた」と36節にあります。つまり「これ」というのは主イエスのことです。「主イエスこそわたしの子、選ばれた者だ。このイエスにこそ聞け」と神様はおっしゃったのです。主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子、神様が選び、遣わしてくださった救い主であられるのです。

 そして同時にここには、その主イエスの栄光は、どこかに行けば見ることができるようなものではない、それを人間の営みの中に位置づけ、人間の手の中に確保しておくようなことはできない、ということが示されています。この栄光に触れるために神様がわたしたちに求めておられるのは、「これに聞け」ということです。神様の独り子であられ、神様が選びお遣わしになった救い主であられる主イエス・キリストに聴くこと、そのみ言葉に耳を傾け、従っていくこと、そのことの中でこそ、わたしたちは栄光に輝く主イエスの本当のお姿と出会うことができるのです。主イエスは「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活」なさった御方です(22節)。その主イエスに聴き従うときにわたしたちの歩みも、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」従っていくことになります(23節)。主イエスに従って歩む信仰の人生は、決して祝福と喜びのみに満ちた栄光ある人生ではありません。しかし、この主イエスに聴き従っていくことの中でこそ、わたしたちは、罪深いわたしたちを赦してくださり、神様の民として新しく生かしてくださるまことの救い主と出会い、その御方のもとに生きることができるのです。そしてこの信仰の歩みの彼方には、このわたしたちにも栄光に輝く復活と永遠の命が約束されています。山上の変貌において三人の弟子たちが垣間見た主イエスの栄光に輝くお姿は、その約束が確かであることを証しているのです。これからもそのことを確信して希望を持って歩んでまいりましょう。

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