2022.2.27 主日礼拝
イザヤ書 第55章10〜13節

コリントの信徒への手紙一 第15章51〜58節

ルカによる福音書 第6章39〜42節

                          

「見えるようになるとは」

 本日はルカによる福音書を中心にみ言葉に聞いてまいりましょう。

 きょうのところですが、41節から42節までのところが中心となります。ここで「おが屑」とありますけれども、これは口語訳聖書では塵と訳されております。そしてここに出てくる「丸太」ですけれども、口語訳聖書では「梁」と訳されています。梁というのは、建物の柱と柱の間につける横木のことをを言います。丸太が目の中にある、というのはどういうことなのでしょうか。「おが屑」は目の中に入れば痛い思いをするのですが、この目の中に丸太が、これは一つの比喩だということですが、とても大きな丸太が目の中に入るはずはないのであります。これは何を言っているのか。これは、ものを見ようとしたときに、しっかりと物が見えない障害物、妨げという意味です。目に大きな丸太があるために、見るべきものがはっきりと見えない。そのことを言っているのです。一方この「おが屑」というのは何でしょうか。それは、欠点や粗ということです。友だちやいろんな人の、身の回りの人の粗が見えてしまう。あの人はこういうところがちょっと欠点だ、こういうところを改めればいいのに、などと考えてしまいます。人の粗探しをしてしまうのです。わたしたちは、どうしても上から目線で自己中心的になって、自分こそ正しいという立場で、人を見てしまう批判してしまう、粗探しをしてしまいます。それがわたしたちの現実ではないでしょうか。そしてわたしたちは人を裁いてしまうのです。わたしたちは自分のことは一番自分がわかっていると思っていますが、本当は全然わかっていない。自分のことを棚に上げて隣人を裁いてしまうのです。

 そこで、イエス様は、きょうの42節の最後のところにありますけれども、「偽善者よ。まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」とおっしゃいます。自分の目の中にある丸太、わたしたちの目を曇らせているもの、自分たちの欠点ですね、罪と言ってもいいと思いますけれども、そこにわたしたちは気づかないのです。しかしイエス様は、それを取り除かなければ、はっきり見えるようにはならないとおっしゃるのです。

 わたしたちは、自分の目から丸太を取り除くことができるのでしょうか。この丸太がわたしたちの目を遮っている罪だとするならば私たちは自分の罪を自分で取り除かなければなりません。しかし、これは容易なことではないということに私たちはすぐ気がつきます。

 わたしたちは、日々いろんな罪を犯してしまう。うっかり変なこと、おかしなことを言って人を傷つけてしまうなどということがあります。わたしたちがうっかりしたことで、人を傷つけてしまう。わたしたちが知らずに犯してしまう罪もあるでしょう。そういう罪をわたしたちは自分の力で取り除くことはできないのです。そのときは反省するかもしれないけれども、わたしたちはまた同じようなことをしでかしてしまう。

 このわたしたちの罪を取り除くことができるのは、実はイエス・キリストしかいらっしゃらないのです。わたしたちの罪を清める、わたしたちの罪を取り除いてくださる。それをできるお方は、イエス・キリストしかいない。わたしたちの罪を取り除いてくださるために、イエス様は十字架にかかられたのです。主イエスは、わたしたちが到底耐えることのできない苦しみを味わわれて、死なれ、そして陰府にくだり、三日目によみがえられた。そのことによってわたしたちは、罪を赦されています。わたしたちが知らずに犯してしまう罪、その多くの罪を赦してくださるために、イエス・キリストは十字架にかけられたのです。わたしたちの罪は赦されている。わたしたちは自分で自分の丸太を取り除くことができないということを、そのことを気づかせるために、イエス様はこのようなことをおっしゃったのではないでしょうか。

 それではどうすればいいのか。わたしたちが自分たちの丸太を取り除いて、はっきり見えるようになるためには、前回のところで申し上げましたけれども、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱するもののために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい」とありますが、この大変厳しい戒めを守るということが、それをできる者こそが、この「はっきり見えるようになる」ということです。しかし、わたしたちは自分の努力や力でこのあなたの敵を愛しなさい、以下の厳しい戒めを守ることはできない。わたしたちは神様のみ言葉の力。聖霊の力を乞い求めていくしかないのです。十字架にかかられた主イエスの、その足元にわたしたちはひれ伏して、ぬかずいて、悔い改めの心を持って、わたしたちがこのはっきりと見える者になれるように、わたしたちは祈り求めていくのです。わたしたちが自分の目から、丸太を取り除いていただき、そして自分自身をはっきり見えるようになる。そして、隣人とより良い関係を結んでいくことができる。わたしたちを憎むものに親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、わたしたちは侮辱する者のために祈る。そして、隣人をどんな人でも愛することができる。すぐにはできませんけれども、諦めずに、聖霊の力を乞い求めてわたしたちは進んで行くのです。そのことによってわたしたちは、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができます。隣人の欠点とも思えるようなことを、たしなめたり指摘することができる。お互い戒めあって、赦し合って生きることができるのです。「人を裁くな」という戒めは非常に厳しい戒めでありますけれども、聖霊の力を乞い求め、悔い改めの心を持って、主の足元にわたしたちはひれ伏していくときに、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができるのです。お互い愛し合って、戒め合って生きることが可能になるのであります。そのことをたびごとに求めて、歩むことができるように、祈り求めてまいりましょう。

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