2022.2.13 主日礼拝
エレミヤ書 第17章5〜10節

コリントの信徒への手紙一 第15章12〜20節

ルカによる福音書 第6章17〜26節

                          

「幸いと不幸」

 きょうのところでは、四つの幸いと、それに対応して、四つの不幸ということがセットになって述べられています。前半のところで、飢えている人々やいま泣いている人々、人々に憎まれること、それらのことが幸いであると、主イエスはおっしゃるのです。しかし、わたしたちはそれを聞くときに、戸惑いを覚えるのではないでしょうか。貧しいこと、飢えていること、泣くこと、憎まれることがどうして幸いなのだろうか。わたしたちは疑問に思うのです。普通わたしたちはこの逆に、貧しさではなく豊かなこと、飢えていることではなくて満腹していること、悲しいことではなくて笑うこと、憎まれるのではなくて褒められることを幸いだと思うのです。しかし、イエス・キリストはその逆をおっしゃいます。ここで「貧しい人々は、幸いである」というこの「貧しい」という言葉は、元々の意味は「物乞いをする」という意味です。自分の力でご飯を食べることができない。「物乞い」、人に施しを受けなければ生きていけない人たちです。それほどの貧しさという意味がここにあります。なぜそういう人たちが幸いなのでしょうか。ここでは、「清貧のすすめ」のような「貧しいことが即幸せだ」ということを直接に言っているのではないのです。この「貧しい」という言葉は、先ほど申しましたように、物乞いをするしかないほどの貧しさ、極貧ということでありますけれども、元々の意味から少し派生した意味もあります。何も持っていない、頼るべきものが何もない。自分の力に頼ることはできない。だからひたすらに神様に救いを求める。そのことが、「貧しい人々」ということです。本当に困って神様に救いを求めること。自分の力に依り頼むのではなく、神様の前に本当に貧しいものとなって神様に救いを求めるということです。ここでは、何も持たないものとして、ひたすらに神様に救いを求める。だから、幸いなのだ、というふうに、読むことができると思います。この「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。」ということ、このことがベースになって、後の箇所の幸いや不幸ということを考えることができると思います。この「貧しい人々は幸い」であるということのセットとして、24節に「富んでいるあなたがたは不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」とあります。たくさん財産を持って、満ち足りている人。もうその人は慰めを受けているから、不幸であるとキリストはおっしゃるのです。お金持ちは、それで満ち足りている人は、財産を持って満ち足りている人たちは、もうそれで全て満足してしまいがちです。ともすれば、財産やお金があれば他に何もいらないのだ、ということになってしまうのです。それは、目に見えない神様よりも、財産やお金に依り頼んでいるということです。神様を拝むのではなく、お金や財産を拝んでいるのです。しかし、信仰者として「お金持ちが即不幸だ」ということではなく、神様への信仰を脇において、お金や財産を中心にしてしまっている。それらに依り頼んでしまっている。そのことが不幸なのだと主イエスはおっしゃるのです。

 ところで、22節をご覧ください。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」とあります。これはどういう意味なのでしょうか。「その日には」とありますが、それは、わたしたちがこの世で生きているこの時間のことだけではありません。「天には大きな報いがある。」わたしたちは必ずこの地上の生涯を終える日が来ます。その時、わたしたちは、神様にお目にかかることができるのです。神様の御前に立つことになる。「そのときに、大きな報いがある。」とあります。神様のために、イエス・キリストのために迫害を受け、たとえ殺されるようなことがあっても、わたしたちは地上の生涯を終えたその時には、神様から大きな報いをいただくことができるのです。わたしたちは、この地上の生において、様々な困難な状況に置かれます。そのことによる苦しみがあります。しかし、神様とお目にかかる日には、神様が地上の生涯においてわたしたちが生きたその生き方を見てくださって、報いを与えてくださるのです。わたしたちのこの人生は、全てこの生きているこの間だけで終わるのではありません。神様の御前に立つとき、そのとき報いが与えられるということがわたしたちの希望であり、救いなのです。そしてさらに、わたしたちは、この世の終わりの日に、イエス・キリストが再びこの世に来られる時には、わたしたちが復活の命を与えられ、永遠の命に生きる、その救いの約束を与えられています。わたしたちはそれらのことを信じて、きょうを生きるものとされたいと思います。そのことを求めて希望を持って歩んで参りましょう。

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