2022.1.30 主日礼拝
エレミヤ書 第1章4〜10節

コリントの信徒への手紙一 第13章1〜13節

ルカによる福音書 第4章21〜30節

                          

「信仰と希望と愛」

 きょうのこの13章は、「愛の賛歌」とも呼ばれており、「愛」をテーマとしている所です。13章は愛をテーマとしていますが、「愛とは何か」という一般論を語っているのではありません。聖霊によって与えられる最高の賜物としての愛について語っているのです。

 わたしたちは、自分にはどんな賜物が与えられているか、ということをいつも気にしています。自分にはどんな力、才能があるか、何ができるか、そしてその賜物をどれくらい発揮することができているか、それが私たちの主要な関心事であると言えるでしょう。そして、私たちはその自分の賜物を人の賜物と比較して、誇り高ぶったり、ひがんでいじけたりします。そのように自分の賜物のことで一喜一憂しているのがわたしたちの毎日なのです。コリントの教会の人々もまさにそうでした。彼らは、預言を語ることができる、異言を語ることができる、信仰における知識を持っているという賜物を喜び、誇り、それらにこだわっていました。しかしパウロはここで、コリントの人々が、またわたしたちが気にしている賜物は全て、滅び廃れていくものであって、永続するものではない、と述べています。

 自分に何ができるか、どんな力があるか、という賜物は、時が経つにつれて失われていくのです。そのことが一番はっきりするのは老いにおいてでしょう。若い頃にはできたことが、年をとるにつれてできなくなっていく、というのは誰でも感じることです。何ができる、どんな力がある、という賜物は、必ず失われていくものなのです。しかし、8節で「愛は決して滅びない」とパウロは述べます。ただし、この愛はわたしたちがもともと自分の内に持っている愛ではありません。聖霊の賜物である愛です。聖霊が与えてくださる愛です。その愛は滅びることがないと言われているのです。

 様々な賜物は滅び廃れていくが、愛だけは決して滅びない、というのは、愛と他の賜物とを比べてどちらが優れているか、という話ではありません。愛は、神様が主イエス・キリストにおいてわたしたちを完全に知っていてくださり、愛していてくださる、そのことに支えられた、わたしたちと神様との間の滅びることのない関係なのです。他の全ての賜物は、この関係の中でこそ生かされます。わたしたちが持っている賜物、わたしたちの力、わたしたちに出来ることというのは、どんなに優れているとしても、不完全な、部分的な、廃れていくものでしかありません。「愛する」ということにしても、わたしたちが神様と人をどれだけ愛することができるか、という意味では、それもひとつの不完全な、部分的な、廃れていく賜物でしかありません。見つめるべきことはそのわたしたちの愛ではなくて、神様が、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架の死と復活とによってわたしたちの罪を全て赦してくださっているということ、つまり神様がわたしたちを完全に知っておられ、その上で徹底的に愛していてくださるということです。聖霊の働きによってわたしたちはそのことを知らされ、信じる者となります。信仰も聖霊が与えてくださる賜物なのです。そして信仰はわたしたちに希望を与えます。いまは、神様のことをまことに不十分にしか知らず、愛することにおいても欠けだらけの者だけれども、完全なものが来る世の終わりの日には、「はっきり知られているようにはっきり知ることになる」、つまり、神様がいまわたしたちのことを完全に知っていてくださるのと同じように、わたしたちも神様のことを完全に知り、愛するようになることが約束されているのです。神様を完全に愛することができればわたしたちは隣人を完全な形で愛することができるようになるのです。いまは神様の側の恵みによってのみ支えられているわたしたちと神様との交わりが、完全なものになるのです。わたしたちはそのことを待ち望みつつ生きています。その希望も聖霊の賜物です。そしてそれらすべての中心にあるのが、イエス・キリストによってわたしたちに注がれている神の愛です。「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。わたしたちに、聖霊によって、この信仰と希望と愛が与えられます。その恵みの中でわたしたちは、わたしたちの不完全さ、欠け、罪にもかかわらず、最も大いなるものである愛に生きる者とされていくのです。イエス・キリストがわたしたちの救い主としてこの世に来てくださって、決して滅びることのない神様の愛を示し、与えてくださったことを喜び、聖霊の賜物である愛を熱心に祈り求めていきたいと思うのです。

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