2022.1.23 主日礼拝
ネヘミヤ記 第8章1〜10節

コリントの信徒への手紙一 第12章12〜31a節

ルカによる福音書 第4章14〜21節

                          

「キリストのからだ」

 本日は、「コリントの信徒への手紙一」を中心に御言に聴いて参りましょう。使徒パウロは、ここで「キリストのからだ」という比喩を用いて何を言いたかったのでしょうか。それは、コリントの教会の現実を見据えながら、からだの比喩を用いて教会の人々に励ましと勧告を述べるということでした。

 コリントの教会は、当時、教会とは何かを巡って考え方の対立が起こっており、ここでは特に、教会の枝々に与えられている聖霊の賜物をめぐって教会内に波風が立っておりました。そのことを憂慮したパウロは、教会内の一致を図るように勧告を与えようといたします。きょうの前の箇所で、聖霊によって与えられる様々な賜物について述べられておりますが、教会の中でそのような賜物を数多く豊かに持っていると自認している者たちがおり、それらの人たちが、乏しい賜物しか持っていないと感じて劣等感を抱いていた人々を見下していたということがありました。そして劣等感を抱いていた者たちが自分を卑下し、卑屈になって、教会の奉仕に消極的になっておりました。さらに教会から離れようとさえしておりました。そのような状況をパウロは知り、からだの比喩を用いて教会員たちを励まし、あるいは厳しく批判し、彼らを信仰の正しい方向へと導こうとしたのであります。教会内のある弱い人々が、自分たちが十分な賜物を持っていないという気持ちを持ち、賜物を充分に持っていると思われる人々に引け目を感じ、自分たちは完全な意味で教会に属する者ではないと弱気になっているという状況が教会の中にありました。たとえば、教会員同士の中で、「異言を語ることができるかできないか」ということをもって能力上の優劣が暗黙の内に判断されたということがあったようです。逆に異言を語れる賜物を持った人々や豊かな能力を持った人々が弱い人々を見下すということがありました。

 いまパウロは、ここでそのようなことを厳しく非難しつつ、「からだは多くの部分があって、多様な賜物を持った多くの人々が共に助け合い協力し合って、からだ全体の益となるように用いられること、それが教会なのです」とパウロは語ります。それゆえに、それぞれに与えられた賜物に不満をもって劣等感を抱いたり、逆に傲り高ぶったりすることがあってはなりません、とパウロは告げるのです。

 コリント教会の人たちは、神から聖霊の賜物が与えられていることの意味を誤解し、自分を卑下したり、自分を誇り、隣人を見下したりしておりました。そのことの問題性をパウロは厳しく指摘したのでありますが、彼らにとって、神から与えられた賜物を用いて生きる最高の道とは何かということについて13章以下で語ります。与えられた賜物を教会全体の益となるようにするためには何が必要なのかということを語ろうといたします。それはいかなる道だと言うのでしょうか。それは愛の道だとパウロは語ります。「愛」こそが、教会の中に注がれた聖霊の賜物を真に生かす原動力であり、もし愛がなければ、他のいかなるものも意味を失ってしまうことを強調して、教会が、キリストの十字架の愛によって生かされている共同体であることをパウロは語るのです。

 以上の勧告を通して、パウロは、危機的な状況にあったコリントの教会の人々に戒めと励ましを与え、この群れが、キリストのからだなる教会として建てられて行くこと、キリストのひとつ体にふさわしい働きがなされていくことを求めたのではないでしょうか。このことは、コリントの教会の人々に対してだけにとどまらず、わたしたちにも向けられた戒めであり励ましでもあるでしょう。わたしたちもまたそのことを深く心に刻んで、福音宣教と教会形成の業に励んで参りたいと思うのです。

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