2022.1.9 主日礼拝
イザヤ書 第40章1〜11節

テトスへの手紙 第2章11節〜3章7節

ルカによる福音書 第3章15〜16節、 21〜22節

                          

「聖霊によるバプテスマ」

 本日は、「聖霊によるバプテスマ」ということについて御言葉に聴いてまいりましょう。

 バプテスマすなわち洗礼とは何でしょうか。洗礼は、聖礼典のひとつです。もうひとつの聖礼典は聖餐です。洗礼について、「日本キリスト教会大信仰問答 問157とその答え」には次のようにあります。

「問157:洗礼とは何ですか。

答:父と子と聖霊の御名による水の洗いです。あたかも水が肉体のよごれを洗うように、洗礼は神が十字架の血によって罪人を赦し、聖霊によってきよめわかち、恵みの契約に入れ、キリストの肢としてくださる救いの刻印です。そして、ただ一回の行為であって繰り返されません。」とあります。

 洗礼の儀式は水によってなされます。その方法としては、全身を水に浸けるという方法もあるし、日本キリスト教会のように、洗礼を受けようとする人の頭に少しの水をかけて行う方法もあります。洗礼は、水によって洗いきよめられることと同じようにキリストの十字架で流された血によってわたしたちの罪の汚れが洗いきよめられるということを示す目に見えるしるしです。この洗礼によってわたしたちは、キリストともに生き、新たに生まれ変わらせられ、キリストの身体である教会の一員とされるのです。

 きょうの聖書の箇所であるルカによる福音書のところですが、これは主イエスが洗礼を受けられるところです。そもそもなぜ主イエスは洗礼を受けられたのか。洗礼をお受けになる必要などなかったのではないのかと思われます。主イエスの洗礼はなにか奇妙な感じを受けます。なぜなら、洗礼は罪の赦しに関わることであり、主イエスは罪のない御方だからです。

 主の受洗は、罪の赦しに関わることであることよりも、民衆と共に救いの道を歩まれるという主イエスの姿勢の表れでありました。主イエスは、低きに下る神、罪人と共に歩まれる神、へりくだられた御方であったということがここで示されているのです。

 主イエスはそのご生涯において、このところから公的な活動を開始されました。神様は主イエスの公的な活動の出発点においてその門出を祝うかのように、洗礼において主イエスを励まして、聖霊の力を豊かに注いでくださり、力強く送り出してくださったのではないでしょうか。

 主イエスは、受洗の際に民を導く霊と力を授かりました。ということは、わたしたちも受洗の際に聖霊が降り、聖霊の力が与えられることが確認できるのです。

 わたしたちが洗礼を受けるとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉がわたしたちにも告げられるのです。わたしたちには少しも「愛される」資格などないにもかかわらずです。しかし、罪深いわたしたちのどこが御心に適うというのでしょうか。神様は、主イエス・キリストの故にそう言ってくださるのです。神様の愛する独り子が、この地上に、わたしたちのところに来てくださった故に、神様はわたしたちを独り子と同じ者として見てくださるのです。これこそが福音なのです。

 わたしたちは、洗礼を受けるときに、キリストとともに死に、復活されたキリストご自身の新しい命によって新しい生へと招き入れられます。御言葉の説教を通して、御言葉の福音を信じたわたしたちに、洗礼を通して、神がその確かさを約束し、保証してくださいます。そのしるしとしてわたしたちにそのことを確証させようとしておられます。わたしたちが、洗礼を受けたという事実を思い起こすことでわたしたちはそのことの確信を度ごとに与えられるのです。わたしたちも自らの受洗の経験を思い起こすことを通して、神の子としての自覚を持ち、神の恵みに自らを委ねる決意を新たになすよう求められています。そしてまた、主イエスが洗礼を受けた直後に祈りを献げたことは、わたしたちもまた受洗を通して天の父なる神様との交わりに入れられたことを示しています。

 わたしたちが洗礼を受けたことは、わたしたちの信仰生活における慰めとなり、励ましともなります。宗教改革者マルティン・ルターにとって、洗礼は生涯にわたって彼の慰めの源でした。彼は、失敗を経験したとき、誤りを犯して良心が咎められ、自暴自棄になったとき、彼は「わたしは洗礼を受けている。洗礼を受けているのだから、わたしは救いと永遠の命の約束を授かっている」と何度も何度も洗礼を受けていることを自分で確かめて、それが生きる上での慰めと励ましになったのです。

 もうひとつの聖礼典である聖餐もまた、わたしたちが神の子とされ、キリストとしっかり結び合わされ、キリストとひとつにされているということを確信させていただける目に見えるしるしです。聖礼典とは、見えない恵みの見えるしるし。福音の見えるしるしです。神様は弱いわたしたちを励ますためにわたしたちに聖礼典という見えるしるしを与えてくださいました。洗礼は生涯に一度きりですが、聖餐は毎月あるいは、教会によってはそれ以上の頻度で、わたしたちはあずかることをゆるされ、そのたびごとにその目に見えるしるしによって、神の恵みを目にして、神の救いを確信することができるのです。             閉じる