2021.12.5 アドヴェント・降誕節第二主日礼拝
マラキ書 第3章1〜4節

フィリピの信徒への手紙 第1章3〜11節

ルカによる福音書 第3章1〜6節

「キリストの道を備える」

 きょう読んでまいりますルカによる福音書の3章には、イエス・キリストが人々の前に姿を現し、活動を始められたことが語られています。その主イエスの活動に先立ってザカリアの子ヨハネが登場します。ヨハネは主イエスに先立って歩み、主イエスのために道を備え、整えるのです。このヨハネの活動は、「神の言葉が彼に降った」ことによって始められました。ヨハネに神の言葉が降ったのは荒れ野においてでした。なぜ荒れ野だったのでしょうか。それは、4節以下に語られている預言者イザヤの言葉がこのヨハネにおいて実現するためです。ヨハネは、荒れ野において、この荒れ野に主の道を整えよ、と叫ぶ声として登場したのです。彼に降った神の言葉とは、「荒れ野に主の道を整えよ」という命令でした。その主とは救い主イエス・キリストです。ヨハネは、主イエスの道を備えるため、整えるために立てられ、遣わされたのです。

 「荒れ野」は人々の心の状態を象徴している言葉です。そしてそれは、この当時のユダヤの人々がそうだった、というだけの話なのではなく、現代に生きるわたしたちも同じなのです。わたしたちの心も、荒れ野のような状態にあるのです。世の中の荒廃は私たち自身の心から始まっていると言うべきです。わたしたち自身の中に、不安があり、恐れがあり、不平不満や妬みがあり、人を恨む憎しみの心があるのです。

 神様はそのようなわたしたちのために、その独り子イエス・キリストを、救い主として遣わしてくださいました。その救いにあずかるには、わたしたちの心の荒れ野の中に、主の道が整えられなければならないのです。

 ヨハネは、荒れ野にその道を整えるために何をしたのでしょうか。それは3節に語られています。「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。この「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」ことが、荒れ野に主の道を整えることだったのです。彼は人々に洗礼、バプテスマを授けました。彼が授けていた洗礼は、「罪の赦しを得させる悔い改め」を意味するものでした。洗礼の目的は罪の赦しを得させることです。罪の赦しこそが、荒れ野のように荒廃しているわたしたちの心に与えられる救いなのです。それでは、悔い改めとは何でしょうか。

 それは単なる後悔や反省ではなくて、神様の方に向き直ることです。神様に背を向けている私たちが、180度向きを変えて、神様の方を向く、神様に顔をしっかりと向き直ることです。この方向転換こそが悔い改めなのです。

   悔い改めて神様に立ち帰るわたしたちに、神様の恵みによって罪の赦しが与えられるのです。ヨハネはそのために人々に洗礼を授けていたのです。ヨハネは人々に悔い改めるべきことを強く勧めました。彼はわたしたちの罪を厳しく指摘し、その罪によって、自分の心の中にも、また周囲にも、荒れ野が生じていることを深刻な問題として受け止めさせ、心の向きを、人生の方向性を変えて、神様のもとに立ち帰るべきことを強く勧めています。この勧めこそ、ヨハネがイエス・キリストのために整えようとしている主の道なのです。この勧めが、つまり悔い改めへの促しの声が、荒れ野のようなこの世に、また荒れ野のようなわたしたちの心に響くことによって、荒れ野に主の道が整えられていきます。その道が整えられるところに、イエス・キリストによる救いの御業が、具体的には十字架の死による罪の赦しの恵みが、実現していくのです。

 ヨハネはわたしたちに、イエス・キリストの救いの恵みにあずかるためには悔い改めが必要であることを教えています。それは言い換えれば、自分の罪を見つめ、認めることが必要だということです。確かにわたしたちは、自分の心に荒れ野があることは意識しています。平安を失い、愛を失い、妬みや憎しみに捕えられ、人との良い関係を築いていくことができず、むしろそれを損なってしまうことが多いことを嘆いています。しかしその根っこに、神様に背き逆らっている罪があることにはなかなか気付きません。神様から離れていることがそれらの苦しみの原因であり、本当の解決は、神様のもとに立ち帰り、罪の赦しをいただくことであることがなかなか分からないのです。わたしたちが抱えている問題、荒れ野を歩むわたしたちの苦しみの源は私たちの罪です。私たちはそのことを、神様から降るみ言葉によってはっきりと指摘され、明らかにされなければならないのです。わたしたちの心の中は荒れ野のようであり、わたしたちが生きているこの世界も荒れ野ですが、その荒れ野に、主イエス・キリストの十字架と復活とによって、一筋のまっすぐな道がすでに開かれています。

 わたしたちは、主イエスの十字架と復活に基づく救いの恵みをいただくことによって、罪の赦しへと至らせる悔い改めの道を歩んでいくことができるのです。その道をしっかりと歩んで行けるように神様にひたすらに祈ってまいりましょう。

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