2021.11.28 アドヴェント・降誕節第一主日礼拝
エレミヤ書 第33章14〜16節

テサロニケの信徒への手紙一 第3章9節〜13節

ルカによる福音書 第21章25〜36節

「主は来られる」

 きょうの聖書箇所は、使徒パウロがテサロニケの教会の人たちにあてて書いた手紙のなかにあるところです。パウロたちは、テサロニケで教会をたてたあと迫害を受け、急きょテサロニケを去らなければならなくなりました。パウロたちは、生まれてまだ数カ月の教会を後に残してこの町を去らなければならなかったのです。教会が生まれてまだ間もなかったのにテサロニケを去らなければならなかったパウロは、テサロニケの人々にもう一度会いたいという願いを強く持っていました。この手紙はそういうときに書かれた手紙なのです。  パウロがテサロニケの人々との再会を願っているのは、自分に好意を持ってくれている親しい友と再会したい、というだけのことではありません。10節の後半にある通りに、「あなたがたの信仰に必要なものを補いたい」と考えていたのです。彼がここで見つめているのは、自分の理想ではなく、神様の恵みの御業です。その恵みは、イエス・キリストにおいて与えられました。神様は、独り子イエス・キリストを、人間としてこの世に遣わしてくださり、その主イエスが、わたしたちの罪を全て背負って十字架にかかって死んでくださることによって、わたしたちに罪の赦しの恵みを与えてくださったのです。わたしたちがここで本当に見つめるべきなのは、神様がイエス・キリストにおいて示してくださった愛と恵みです。それは神様の独り子がわたしたちのために死んでくださったという恵みです。しかし、わたしたちは罪深く弱く欠け多い者なので、どう頑張ってもその恵みにしっかりと応えることはできません。つまり、わたしたちの信仰と愛は、いつでも、誰でも、不十分な、補われなければならないものなのです。パウロは、イエス・キリストにおいて示された神様の愛と恵みに応えていこうとするところにこそ明らかになる、テサロニケの人々の信仰の欠けを補いたいと切に祈り願っているのです。そしてその祈りの具体的な言葉が12節なのです。  その祈りはさらに13節では、「あなたがたの心が強められ、神様の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」という願いへと進んでいきます。「非のうちどころのない者となる」とは、大げさなことを祈っているように思わされます。しかし、テサロニケの人々が、そしてわたしたちも、神様の御前で、聖なる、非のうちどころのない者とされる時が必ず来るのです。それは、「わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき」です。主イエスが来られるとき、それは主イエスの再臨のことです。そのとき、神の国が実現します。その時には、わたしたちの信仰の欠けが全て補われ、わたしたちがお互いの愛とすべての人への愛とにおいて、聖なる、非のうちどころのない者とされるのです。なぜそんなことを確信をもって言うことができるのでしょうか。それは、主イエスがこの世に来てくださったことのゆえです。  神様の独り子であられる主イエスが、二千年前にベツレヘムの馬小屋で、この世に来られ、わたしたちのために、貧しさの極みの中で人となってくださいました。その主イエスは成長して、神様の恵みの福音を人々に宣べ伝え、そしてわたしたちの罪が赦されるためにその罪を引き受けて十字架にかかって死んでくださったのです。  主イエスの愛は、わたしたちの救いのために死んでくださるほどに深い、完全な愛です。そのようにわたしたちを愛していてくださる主イエスが、世の終わりにもう一度来られるのです。それはわたしたちの救いを完成してくださるためです。わたしたちになお残る罪を全て浄めて、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるためです。主イエスの到来の恵み(クリスマス)を覚え、主イエスを神の子、救い主と信じるわたしたちは、主イエスの第二の到来である主の再臨を、わたしたちの救いの完成の時として待ち望むことができます。  きょうからわたしたちは、アドベント、待降節に入ります。主イエスの到来を記念し喜ぶクリスマスに備え、それを待つアドベントは、同時に主イエスの第二の到来、再臨を待ち望む信仰をわたしたちのなかで確かなものにする期間です。わたしたちは、クリスマスにおける主イエスの到来を喜び、感謝するがゆえに、終わりの日の再臨における主の到来を待ち望むのです。そしてそれは、わたしたちの信仰の不十分なところが主イエスによって補われ、完成されることを待ち望むことです。神様を愛することにおいても隣人を愛することにおいても、お互いの愛においてもすべての人への愛においても、わたしたちが聖なる、非のうちどころのない者とされることを待ち望むのです。それは、主イエスが来られるときに実現します。  わたしたちは、それまでのときを、主イエスがそのわたしたちを導き、強めて、わたしたちの愛を豊かに満ちあふれさせてくださることを祈り求めつつ歩むのです。御子の到来を待ち望むこのアドベントにおいて、わたしたちはそのことをしっかりと祈っていきたいと思うのです。            閉じる