2021.10.10 主日礼拝
アモス書 第5章4〜15節

ヘブライ人への手紙 第4章12〜13節

マルコによる福音書 第10章17〜31節

「あなたに欠けているもの」

本日は、マルコによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。きょうの聖書の箇所の最初に、旅に出ようとされている主イエス・キリストのもとに、ひとりの人が走り寄って、ひざまずいて尋ねたとあります。彼は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。「永遠の命を受け継ぐ」、これはまさに神様による救いにあずかるということです。19節にあるように「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と主イエスはおっしゃいました。これらはいわゆる「十戒」の後半の教えです。これが、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という問いに対する主イエスの答えでした。しかしこの答えを聞いてこの人は失望しました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」という彼の言葉には失望感が感じられます。彼が聞きたいと思っているのはそんな当たり前のことではなくて、それ以上のこと、十戒を守ることに加えてさらに何をしたらよいか、律法を守ること以上のことなのです。

 21節には、主イエスが「彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。主イエスはこの人をじっと見つめたのです。その目は慈しみに満ちていました。その慈しみのまなざしの中で主イエスは、「あなたに欠けているものが一つある」とおっしゃったのです。そのあとで主イエスが彼にお語りになったことは、彼とても驚かせるものでした。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。財産を全て売り払って貧しい人々に施し、わたしに従って来る、それが、あなたになお欠けている一つのことだと主イエスはおっしゃったのです。彼はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去りました。主イエスが言われるそんなことは、自分にはとてもできないと思ったからです。しかし主イエスのこのお言葉は果して、永遠の命を受け継ぐためにわたしたちが満たさなければならない前提条件を語っているのでしょうか。主イエスがこの人を慈しみのまなざしで見つめておられたということと、このお言葉はどう結びつくのでしょうか。そして主イエスのこのお言葉の意味は何でしょうか。この人はこれまで、自分が善い行いを積み重ねることによって永遠の命を獲得しようと努力してきました。しかし、いくら努力しても、「これで十分」とは思えなかったのです。まだ何かが足りない、永遠の命を得るにはまだ十分でない、という不安をぬぐい去ることができなかったのです。それで、自分になお欠けているものが何かを教えてもらおうとしたのです。その彼への答えとして主イエスがおっしゃった、「全財産を売り払って施し、私に従いなさい」というお言葉によって主イエスは彼に、これまでのような、自分の力、努力で善い行いをし、その実績によって救いを獲得しようとする生き方を捨てなさい、と言っておられるのです。自分がしてきた善い行いや立派さによって、救いを得ようとすることをやめて、ただ神様の恵みによって救いにあずかるという新しい歩みを始めなさい、ということです。「それから、わたしに従いなさい」と言われているのもこれと同じことです。主イエスに従っていくというのは、主イエスの弟子という立派な人になるということではなくて、ひたすら主イエスの恵みによって生かされる者となることです。主イエスに従うことは、律法を守るときのような苦しみを伴う難行苦行の道ではなくて、従うことも神様から恵み、賜物として与えられるのです。

 主イエスは彼に、自分の力で生きていこうとすることをやめて、わたしについてきなさい、と言っておられます。21節の主イエスのお言葉は、永遠の命を受け継ぐための厳しい条件を示して、それを満たすことのできない者を救いから締め出そうとしておられるのではありません。むしろ主イエスはこの人を、そしてわたしたちを、神様の恵みによって生きることへと招いておられます。永遠の命を受け継ぐことは、何か特別に善いことをすることによってではなくて、ひたすら神様の恵みによりすがることによってこそ与えられるのです。ところが彼は、主イエスのこの招きを受けとめることができずに、気を落とし、悲しみながら立ち去ってしまいました。主イエスはこの人を慈しみのまなざしで見つめておられました。主イエスはいま、十字架の死への道を歩んでおられるのです。わたしたちの全ての罪を背負って主イエスが死んでくださり、復活してくださったことによって、永遠の命を受け継ぐ救いの恵みが、わたしたちのどんな善い行いによってでもなく、ただ神様の恵みと慈しみによって与えられる、その救いの道がいまや開かれようとしているのです。主は、悲しみながら立ち去ったこの人のためにも、十字架にかかって死のうとしておられます。去って行く彼を、主はそういう恵みのまなざしで見つめておられたに違いありません。わたしたちも、全てを捨ててわたしに従いなさいというみ言葉の前に、うなだれて立ち去るしかない者です。しかしわたしたちが、自分は善い行いによって永遠の命を受け継ぐことができるような者ではなく、主の御前から悲しみつつ立ち去るしかない者であることを本当に知る時に、そこからむしろ新しい道が開かれていくのです。わたしたちのために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストの恵みに、何の功績もない一人の罪人としてただよりすがっていくという道です。主イエスは、愛と慈しみのまなざしをもってわたしたちをその道へと招いておられます。その招きに応えて主イエスによりすがっていく時にわたしたちは、何か立派なことをしなければ救いを得ることができないのではないか、という不安から解放されて、喜んで主イエスに従い、また自分に与えられているものを隣人のために喜んで用いていく者とされるのです。

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