2021.10.3 主日礼拝
創世記 第2章18〜24節

ヘブライ人への手紙 第2章5〜13節

マルコによる福音書 第10章1〜12節

「神が合わせられたもの」

 本日は、マルコによる福音書の10章を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。伝道の旅を続けておられた主イエスの前に、あるときファリサイ派の人たちがやってきて、主に「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問いたします。 そのような問いに対して主イエスは、3節にあるように「モーセはあなたたちに何と命じたか」と逆に問い返されました。「モーセは何と命じたか」とは、モーセを通して与えられた神様の掟である律法にはどのようにあるか、ということです。わたしたちの言葉で言えば、聖書には何と書いてあるか、ということになります。

 ファリサイ派という人たちは、もともと聖書をよく学んでいた人々です。聖書のどこに何が書いてあるか、彼らは隅から隅まで知っていたのです。彼らは知らないで質問しているのではありません。その証拠に、主イエスの問いに対して彼らは4節で即座に、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。それは旧約聖書申命記24章1節に教えられていることです。次のようにあります。

「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。彼らはこのように聖書をよく知っているのです。ファリサイ派や律法学者たちが議論していたのは、例えば「妻に何か恥ずべきことを見いだし」とある、その「恥ずべきこと」に当たるのはどのような事柄なのか、ということでした。ある律法学者は、それは妻が姦淫、不倫を犯したということのみを意味するのであって、それ以外の勝手な理由で夫が妻を離縁することは認められない、と教えていました。そしてそれ以外の様々な解釈について議論していました。彼らファリサイ派や律法学者たちは、聖書が離婚について語っているこの言葉をよく知っており、その解釈をめぐって盛んに議論していたのです。

 主イエスは、このような議論をしているあなたがたは、聖書のどこに何が書いてあるかをよく知っているかもしれないが、聖書がちゃんと読めてはいない、そこから本当に学ぶべきことを全く学べていない、ということを示そうとしておられるのです。

 それでは、彼らが読めていないこと、学べていないこととは何でしょうか。それは彼らが、離縁についてのこの教えを、離縁することは律法に適っているか、どういう場合なら離縁することができるか、というような表面的なこととしてのみ捉えており、結婚や夫婦についての神様の基本的な御心を見つめることができていないということです。離婚のことを考えるためには先ず、結婚のことを、そこにおける神様の御心を、聖書に基づいてきちんと考えなければならないということなのです。

 そのために主イエスがここで指摘しておられるのが、本日の旧約聖書の箇所、創世記第2章18節以下なのです。本日のマルコ福音書の7、8節に「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」とあります。これは創世記2章24節の言葉です。ここに、結婚、夫婦についての聖書の教えの基本が語られているのです。そしてその教えの前提となっているのが、マルコにおいては6節の「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった」という言葉です。これを受けて、「それゆえ、人は…」と続いていくわけです。「神は人を男と女とにお造りになった」という言葉は、創世記2章18節以下に語られていること全体を受けています。その部分をきちんと読まなければこの言葉の意味を正確に知ることはできないのです。

 この箇所は、人間が男と女という性別を持った者として造られていることに、神様のどのような御心があるのかを示しています。その根本が18節の御言葉です。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。この御心によって女が造られ、人は男と女として生きる者となったのです。その御心とは、人間は独りで生きるべきものではない、自分に合う助ける者と共に、交わりの内に生きるべきものだ、ということです。そのために人間は男と女として生きているのです。

「彼に合う助ける者」の「合う」という言葉、この言葉は直訳すると「向かい合う」という意味です。つまり対等の存在として、お互いに相手を見つめ、顔と顔とを向かい合わせながら共に生きる、ということです。どちらかが主で、もう一方は従ということではありません。あくまでお互いが対等の平等な関係です。人間は、自分と向かい合って、共に、助け合いながら生きる相手、パートナーと共に生きるべきものだ、という神様の御心によって、人間は男と女として造られたということなのです。

   男と女が、夫婦が互いに向かい合い、共に生きていくところには、人間の頑固さ、罪や弱さのゆえに様々な問題が生じ、傷つけ合うようなことが起ります。イエス・キリストは、そのわたしたちの罪をすべて背負って十字架にかかって死んでくださいました。男と女が、夫婦が共に生きることも、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みによって支えられているのです。主イエスによる罪の赦しがなければ、そこに十字架が立っていなければ、男と女の、夫婦の関係も、助け合うよりもむしろ傷つけ合うことが多いものとなってしまうでしょう。イエス・キリストによる罪の赦しの恵みの中でこそ私たちは、お互いに向き合い、赦し合いながら共に生きていくための努力をしていくことができるのです。そしてそれは男と女、夫婦の関係においてだけではなく、わたしたちの人間関係の全てに当てはまることです。頑固さに捕えられており、罪と弱さを負って生きているわたしたちは、イエス・キリストの十字架による赦しを常にいただきながら、お互いに赦し合い、隣人としてしっかりと向き合い、良い関係を築いていきたいと思うのです。

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