2021.9.26 主日礼拝
民数記 第11章24〜30節

ヤコブの手紙 第5章1〜6節

マルコによる福音書 第9章38節〜50節

「へりくだって生きる」

 きょうの聖書の箇所の冒頭にヨハネが出てきます。このヨハネは十二弟子の一人で、主イエスの宣教のはじめから主のお側にいて仕えていた人です。彼は、その兄弟ヤコブとともに、主から「雷の子」というあだ名をつけられておりました。それは彼らの激しい性格を表していると言えるでしょう。彼らは他の弟子たちにも増して非常に熱心に主にお仕えしていました。そのヨハネが、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と主に申しました。当時は、勝手に主イエスの名前を使って悪霊を追い出すというようなことをしていた人たちがいたようです。名前というものは、その人そのものを表すものであり、十戒に「主の名をみだりに唱えてはならない」とあるように、特に神の名については、慎重な扱いが求められたのです。「わたしたちに従う」とは、主の弟子として従えということです。ヨハネは、その人に「主の名を使って悪霊を追い出しているようなことをしたいのだったら、主の弟子として従え」と命じ、その人がそのことに従わなかったのでやめさせようとしたのでした。おそらくヨハネは、主イエスに得意になってそのことを報告し、ほめてもらえると思ったことでしょう。しかし、予想に反して、主の答えは意外なものでした。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」ある学者の説によると、この主の名を使って悪霊を追い出していた人は、主イエスを信仰していた人ではなかったかということが言われております。使徒言行録19章に、ユダヤ人の祈祷師が主イエスの名を使って悪霊を追い出そうとしたところ、逆に悪霊に反撃されひどい目にあったという話が記されております。そもそも信仰を持っていない者が、主の名を使って悪霊を追い出すことは出来ないことなのです。したがって、きょうの聖書の箇所に出てくる、主の名を使って悪霊を追い出そうとした人は、不十分ながらも主を信じる信仰を持っていた人であったのでしょう。主は、そのような人を敵に回すな、彼のような人もわたしたちの味方なのである、直接弟子にならなくてもわたしたちの味方なのだとおっしゃったのです。わたしたちはともすれば、他人を見るとき、共通点よりも相違点をおもに探し出して、自分の敵か味方か、仲間になれるかそうでないかという風に人を勝手に色分けして、区別してしまいます。主は、隣人をそのような目で見るなとおっしゃっているのではないでしょうか。さらに主は、41節に「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」とおっしゃいます。キリストを信じる者であるわたしたちに、好意を示してくれる者、少なくとも迫害したりしない者、なんらかの協力をしてくれる者に、神様は報いを与えてくださると主はおっしゃるのです。それは具体的にはわたしたちの家族のことが当てはまるでしょう。共に礼拝に集うことが出来ればとてもうれしいが、現実にはなかなかそうはいかない、礼拝に誘いたいがなかなかきっかけもつかめないというようなことであっても、日曜日には礼拝に行かせてくれる、教会まで送り迎えしてくれる、家族の者たちも、わたしたちの味方なのだ、彼らのことも神は顧みてくださるのだと主はおっしゃっているのです。神は、わたしたちがかつて神に背き、神に敵対していた者であったにもかかわらず、そのようなわたしたちのために愛する御子を十字架にかけてまでわたしたちを救ってくださったのです。わたしたちを、主を信じる者へと変えてくださったのです。その神様が、わたしたちのために一杯の水を飲ませてくれる者たちを顧みられないはずはありません。キリストを信じる者が圧倒的に少ないこの日本で、わたしたちが家族や周りの人に対しても、わたしたちの味方として、友として、見ていくことができる者となれるようにされたいと思います。

 わたしたちは神様の前にまともに立つことができない罪深い者たちです。そのようなわたしたちのために、主イエスは十字架の苦しみと死とを一人で背負ってくださり、わたしたちの罪を赦し、あなたはわたしの敵ではなくて味方だ、友だ、と語りかけてくださっています。主イエスによるこの救いの恵みにあずかったわたしたちは、隣人の中に敵ではなく味方を、友を見出していくことができるはずです。小さな違いを探り出して敵対していくのではなくて、様々な違いがあっても、主イエス・キリストの救いに共にあずかることを喜ぶことができるはずです。自分が一番になり、重んじられなければ気がすまないのではなくて、人の働き、人の奉仕を、喜んで受け入れることができるはずです。また、たとえいまわたしたちと同じ信仰に立とうとしていなくても、わたしたちの信仰を認め、礼拝へと送り出してくれ、どんな小さなことでも協力してくれる人の存在を、喜び、感謝することができるはずです。神様は、わたしたちにそうしてくださったように、その人たちのほんの小さな協力をも喜び、ご自身の味方として見てくださっています。つまり神様は、その人たちを救うことにおいて、希望を捨ててはおられないのです。

 主イエス・キリストがクリスマスに人間となってこの世に来てくださったのは、神様が私たちに対して希望を捨てることなく、敵であるわたしたちをも愛によって味方へと変えてくださるためでした。独り子の命をも与えてくださった神は、決して望みを捨てない、それゆえにわたしたちも望みを捨てることなく、神様と隣人の前でへりくだって、神様がわたしたちを見つめてくださっているその愛のまなざしで、周囲の人々を友として見つめ、良い交わりを築いていきたいのです。

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