2021.9.12 主日礼拝
イザヤ書 第50章4〜9節

ヤコブの手紙 第2章14〜18節

マルコによる福音書 第8章31節〜9章1節

「十字架の福音」

 きょう聴いてまいります聖書箇所の前のところで、ペトロは主イエス・キリストに対して「あなたは、メシアです。救い主です。」との信仰を言い表しました。しかし、主はそのすぐ後で ご自身が必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められました。それを聴いてペトロはとても驚きました。「数々の奇跡の御業を多くの人たちの前で行なって来られたお方が、そのようにして殺されるはずなどないではないか」と思い、主をいさめ始めたのです。ペトロは、主イエスを地上の力あるメシア、救い主だと信じていました。主イエスを、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれる力ある政治的な意味でのメシア、救い主だと信じていたのです。主は、そのペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それまでの主イエスは、皆の前で奇跡を行なわれる力強い存在であり、そのために主をいさめるペトロの気持ちももっともなようにも思えます。そのペトロに対して「サタン」呼ばわりするのは、かなり厳し過ぎるように聞えます。しかし、このことを通じて「イエスとはどのようなお方なのか」ということがはっきりと示されたということなのです。主イエスと言うお方は、ペトロたちが考えていたような地上の栄光の救い主、政治的な意味でのメシアなどではなく、十字架の上で血まみれになって、苦しみ抜かれ死んで復活して、人類の救いを成し遂げられるお方だということを主イエスは明らかにお示しになろうとしたのです。この時点ではこの主イエスが予告されたことの意味がペトロを始め他の弟子たちにも理解できなかったのです。主イエスは、弟子たちだけでなく、群集に向かって、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と仰いました。自分を捨て、自分の十字架を背負ってとは「自己否定せよ」ということです。「自分に死ね」ということであります。当時十字架の刑罰においては、罪人は自分がこれから掛けられようとしている十字架の横木を背負って刑場までの道を歩かされました。ですから、「自分の十字架を背負う」とは、死刑にされるために死に赴くということであり、「自分を捨てること」と「自分の十字架を背負う」ということは同じ意味です。主イエスは、自分を捨て、自分に死に、自らのこの世的な安定や自己保全を放棄して、神に全てを委ねきれ、私に従えと仰ったのです。弟子たちは、あのガリラヤ湖の畔で主イエスによって召されたときに、船や網、そして家族をも捨てて主を信じ従いました。そうしたところには、十分ではないにしろ、なにがしか、この種の自己否定、自分を否定するということに通ずることが見受けられます。ですから、弟子たちについて言いますならば、最初主イエスにお従いしたあの姿勢を堅く保つこと、いや、常に、主イエスの傍にいて主と生活を共にし、また特別の教えを受け、さらに宣教活動にも加わるなど、それらすべてを通して、主イエスへの服従をより徹底した一途なものに深めることが期待されていたということが出来るでありましょう。

 しかし、実際には、それとは裏腹に、弟子たちは、いつも主イエスを理解することが出来ない者たちでありました。彼らは、主イエスが受難の道に進まれる覚悟をはっきりと語られると、先に述べましたように、「そんなことはあり得ない」と言って、それを阻止しようとし、また主イエスが逮捕されると、皆、主を捨てて結局逃げていったのであります。

 ここで、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という言葉に続いて 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」と語られていることに注目したいと思います。この言葉は、前の言葉をより徹底した言い方にしていると言えるでしょう。「自分を捨て、自分の十字架を背負って」主イエスに従うということは、主イエスのために、また福音のために命を失うことであると言われているからです。すなわち、誰であれキリストを信じる者は、皆、主イエスのため、福音のために生き、そして死ぬのです。

 ところで、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、主イエスにお従いする道」は、ひたすら難行苦行をしていくだけの苦しみの連続の道なのでしょうか。御言に聴きましょう。マタイによる福音書11章28節から30節、新約聖書の21ページです。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 わたしたちは人生の途上で様々な重荷を背負います。それらの重荷に押しつぶされそうになるときもあります。そのようなわたしたちに対して主イエスは「休ませてあげよう、わたしのもとに来なさい」といつも招いていてくださっています。「軛」とは、荷物を引かせるために二頭の牛をつないで、牛の肩に背負わせる道具のことを言いますが、その片方を主イエスが共に背負っていてくださるということなのです。十字架を背負って進み行かれる主イエスは、わたしたちに向かってあとに従うことをお命じになりますが、キリストはわたしたちの前を先立ち行かれたり、わたしたちの傍にもいてくださって、わたしたちの背負うべき十字架の軛を共に担ってくださるお方なのです。十字架を背負って従う信仰の尊さそして意義深さの根拠はここにあります。主イエスは「大丈夫だ、安心して行きなさい。あなたの軛は私も背負う」と言ってくださるお方であります。

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