2021.7.18 主日礼拝
エレミヤ書 第23章1〜6節

エフェソの信徒への手紙 第2章13〜18節

マルコによる福音書 第6章30〜34節

「キリストにおいて一つ」

 きょうはエフェソの信徒への手紙を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。エフェソの町はいまのトルコ共和国の東にあった町でした。エフェソの町の人たちはユダヤ人にとっては異邦人です。エフェソではユダヤ人キリスト者は少数派でした。ユダヤ人は生まれて間もなく、その身に割礼を受け、律法を重んじていた人たちです。そのユダヤ人の中からキリストを信じる人たちが出てきました。使徒パウロは、異邦人キリスト者が多いエフェソの教会の人たちに向けてこの手紙を書いています。異邦人キリスト者は、キリスト教の信仰に入る前は、12節にありますようにキリストとかかわりなく、・・・約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。

 エフェソの教会にいる異邦人キリスト者をユダヤ人キリスト者は、以前から見下しておりました。自分たちは割礼を受けており、律法を大切に守っている神の民だという自負がありましたから、異邦人キリスト者たちを見下しているところがあったのです。そのため異邦人キリスト者はユダヤ人キリスト者に反感を抱いておりました。

 13節に「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」とあります。異邦人キリスト者が神と近い者とされたのは、洗礼を受けたからですが、その根本には「キリストの血による」ということがあったのです。「キリストの血」とは、キリストの十字架のことです。キリストが十字架にかけられ、血を流されることにより、わたしたちはそのキリストの血によってわたしたちの罪の汚れが洗い浄められたのです。神の救いが与えられたのです。洗礼はそのことの目に見える「しるし」なのです。

 深い罪を犯してきたわたしたちを赦してくださるために天の父なる神様は、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられました。本来は厳しく罰せられなければならないわたしたちの代わりに、この世で最も正しい御方が罪をきせられ裁きを受けてくださったのです。そのことによってわたしたちの深い罪が赦されました。わたしたちの罪の汚れを洗いきよめてくださるためにイエス・キリストが十字架の上で血を流されたのです。十字架の上で流されたキリストの尊い血によってわたしたちの罪の汚れが洗い浄められ、神様に近い者とされるようになったのです。

14節から16節をご覧ください。

 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

 ここで言われている「二つのもの」とは何でしょうか。ここでは敵対している「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」のことでしょう。そもそもお互いにいがみ合っている者同士が敵意を捨てて歩み寄るということは本人たちの決意でもって簡単にできるものでしょうか。現実にはそんなに簡単なことではありません。敵意を捨てるということは「お互いがお互いを赦し合う」ということがなければならないと思います。それはこれまでのいきさつによってなんとかできる場合とできない場合があるでしょう。パウロは「十字架によって敵意は滅ぼされた」と語っています。イエス・キリストはご自分が十字架にかかってくださることによって、敵対する者たちをご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現してくださるというのです。わたしたちは、キリストによって新しく造り変えられるのです。わたしたちは以前のわたしたちのままでは、お互いがお互いを赦し合うことはできません。しかし、新しく造り変えられればそれが可能になるとパウロは語るのです。

 コリントの信徒への手紙二 5章17節に「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあります。

 パウロは、ここで「新しく創造された」と述べています。「新しく造り上げる」とは、新しく創造されるということなのです。古い自分が滅ぼされ、新しい自分が造られるのです。それは、わたしたち自身の力によることではなく神様の力によるのです。ここにあります「キリストと結ばれる人はだれでも」とは、原文では英語のinにあたる言葉が使われています。直訳しますと「キリストの内にあるならば」ということです。きょうの聖書箇所、エフェソの信徒への手紙の2章13節や15節にあります「〜おいて」も同じinです。「キリストの中に」です。わたしたちはキリストの中にとどまるならば、新しく創造されるのです。「キリストの中にとどまる」とは、神の御言葉を聴いて、主を信じ、主の御後(みあと)にお従いすることです。

 礼拝のたびごとにわたしたちは古い自分に死んで、新しく造られるのです。その保証はどこにあるのでしょうか。それは、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活なさったことにおいてです。そのことが確実な保証です。わたしたちは主日礼拝までの一週間、御言葉を携えて過ごしますが、弱いわたしたちは多くの罪を犯してしまいます。その中にはわたしたちが知らずに犯してしまう多くの罪もあることでしょう。しかし、礼拝において神の御言葉に聴き、悔い改めて神様に向き直るならば、古い自分の罪は、キリストの尊い血潮によって洗いきよめられ、わたしたちは新たに生まれ変わらせていただけるのです。それがキリストを信じて生きるわたしたちの新しい創造です。わたしたちは礼拝の度ごとに新しく創造され、わたしたちの中にあった敵意は滅ぼされ、わたしたちは一つにされるのです。そのことを信じ希望を持って歩んでまいりましょう。

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