2021.7.11 主日礼拝
アモス書 第7章12〜15節

エフェソの信徒への手紙 第1章3〜14節

マルコによる福音書 第6章6 b〜13節

「神の秘められた計画」

 きょうの説教題は、きょうの聖書箇所の1章9節にある「秘められた計画」という言葉からとりました。この言葉は他の聖書では、「御心の奥義」とか「御旨の奥義」と訳されています。直訳すれば、「神の意志の神秘」とでもなるでしょうか。「秘められた」とか「奥義」と訳された言葉はギリシャ語の原典では「ミュステーリオン」という言葉で、英語の「ミステリー」という言葉の語源になっています。この秘められた計画を知るために、神様は8節にありますように、わたしたちに「知恵」と「理解」を与えてくださったのです。そこに「神の豊かな恵み」が溢れているのだと、この手紙の書き手とされる使徒パウロは言うのです。その「恵み」とは何かと言うと、5節にあります「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」という言葉に表れています。

 どんな人間でも、神の意志によって「神の子」にされるのです。わたしたちは「イエス・キリストによって」、「神の子」にしていただいたのです。わたしたちは、自分で「神の子」になった訳ではありません。主イエスが、わたしたちの罪が赦されるために十字架で血を流し、わたしたちの代わりに神の裁きを受けてくださいました。そこにある「愛と赦し」によってわたしたちは「神の子」、キリスト者にしていただいたのです。それは7節にありますように「豊かな神の恵みによるものです」。

 天の父なる神様は、イエスをキリストとしてこの地上に送られました。その主イエスが宣教を開始される時、「時は満ちた」と言われました(マルコによる福音書1章15節)。「いよいよ神の国が地上に到来する時が来た。いまが、その時である。」主イエスは、そう言われたのです。すでに「神の国」は、この世の国とは全く異なる国としてこの地上に到来しているのです。その「神の国」に生きるには、誰しもが「悔い改め」なければいけないのです。神に向き直らなければならない。わたしたちは、「イエスはわたしのキリストです」と告白し、「わたしはイエス様に従って生きます」と告白し、その告白の通りに生きたいと思います。「いま、そういう時が始まった」という意味で、主イエスは、「時は満ちた」とおっしゃったのです。

 10節に「救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」とあります。「一つにまとめられます」とは、主イエスが全てのものを統括する、全てのものの支配者になるということです。世の終りにはそうなる。そのことが、世の終りには明らかになる。神様の「秘められた計画」とは、そういうことなのです。

 「世の終り」には、主イエスが再びこの世に来られ、神の国すなわち神の支配を完成してくださる。そう信じることが出来る。だから苦しいときにも生きていける。きょうも信仰に生きようと思える。わたしたちにとって、このような信仰は必要なものです。なぜなら、きょうも神の愛を信じて生きよう、世の終りには必ず神の国が完成する、神の救いが完成する。その時イエス・キリストの前に人々がひれ伏す。そう信じることが出来るから、わたしたちはきょうも喜びと希望を持って生きられるのです。神が与えてくださった「知恵」と「理解」は、そのことに関係することだと思います。その「知恵」や「理解」無くして、聖書に記されている言葉が今のわたしたちに語りかけてくる神の言葉になることもなく、あのパンと葡萄酒が主イエスの体と血を表し、主イエスがわたしたちの罪を赦してくださるお方であると信じるはずもないことです。そして、主イエスは神への信仰に生きようとするわたしたちを励まし、希望を与え続けてくださるのです。それも、わたしたちに「知恵」と「理解」が与えられたからこそ分かることです。  主イエスの十字架の前にひれ伏すのは、自分が罪人だと分かり、その罪を赦すために、神はご自身の子であるイエス様を十字架におかけになったのだと分かる時です。そこに、神様のご意志がある、ミュステーリオンがある。主イエスという正しい御方を、正しくない者の罪を赦すために十字架にかけて裁き給う。その方を復活させ、罪人に新しい命を与え、新しく生かそうとする。それが神の「秘められた計画」なのだと分かった時、わたしたちは主の前にひれ伏さざるを得ないのです。そして、いつの日か、神様は世の終わりに地上に再び主イエスをお遣わしになり、「神の国」を完成させる。全ての者を支配する。主イエスが、全ての者の「主」となられる。その日が来る。わたしたちは、その日に向かってきょうもこれからも歩んで行くのです。  わたしたちは、全ての者が「イエスは主である」と告白する、その日に向かって生きているのです。たとえ、いまは負け続けていようと、最後に勝つのはキリストを通して示された神の愛です。キリストが「天にあるものも地にあるものも一つにまとめられる」日が来るからです。わたしたちキリスト者は、何をしているか分からぬまま罪を犯してしまいます。そういうわたしたちの罪が赦されるために、キリストが代わりに神の裁きを受けてくださったことを知っている。そこに神様の「秘められた計画」があることを、神様から与えられた「知恵」と「理解」によってわたしたちは知っているのです。そこに現れた神の愛と赦しの体現者であるイエス・キリストが天上、地上、地下の全てを覆い、全ての者が「イエスは主である」と言って賛美し、神の栄光をたたえる日が来る。わたしたちは、その日に向かって生きるのだし、死ぬのです。そういう人生をキリストによって与えていただいたことを、神に感謝したいと思います。そして、イエスがキリストであることを証して生きる者でありたいと思うのです。

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