2021.7.4 教会創立記念・召天者記念礼拝
イザヤ書 第43章1〜7節

コリントの信徒への手紙一 第3章10〜17節

「キリストという土台」

 「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」。コリントの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、本日の箇所の冒頭でこう言っています。自分は、熟練した建築家として、建物の土台を据えた。その建物とは何でしょうか。すぐ前の9節に「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」とあります。あなたがた、つまりコリントの教会の人々が「神の建物」なのです。教会に連なるキリスト信者たち、クリスチャンたちは、神の建物である、その建物が揺るぎなく立つための土台を私は据えたのだ、とパウロは語っているのです。イエス・キリストを信じて生きる信仰者の生活は、神様の建物としての歩みです。建物には土台があるし、なくてはなりません。土台は、見えないところにあります。表面に現れているのは、建物の上の部分だけです。しかし建物がしっかりと立ち続けていくためには、土台がしっかりしていなければなりません。目には見えない土台こそが、表面に現れている建物を支えているのです。その土台をパウロは据えたのです。

 パウロが「あなたがたは神の建物である」と言った時に、まず考えていたのは、信仰者一人一人のことではなくて、信仰者の群れ、共同体であるコリントの教会のことでした。教会が神の建物であり、その土台を自分は据えたと彼は言っているのです。その場合の教会はもちろん建築物としての教会堂のことではありません。教会とは、教会堂のことではなくて、イエス・キリストによる神様の救いの恵みにあずかり、神の民として生きる者の群れのことです。その群れが真に神の民として歩むための土台のことが考えられているのです。

 それでは、パウロが据えた土台とは何でしょうか。

 パウロは、自分のことを「熟練した建築家」と読んでいます。「熟練した」というのは、「知恵ある」という言葉です。自分のことを「知恵ある」と言うのは大胆なことだと言わなければなりませんが、しかしパウロは自分の働きを誇ってこう言っているのではありません。パウロが土台を据えたのは「神からいただいた恵みによって」です。彼は自分の知恵や才覚で土台をこしらえたわけではないのです。彼が据えた土台は、人間が考えたり作り出したものではありません。11節に「イエス・キリストという既に据えられている土台」とありますが、教会の土台として据えられているのは、イエス・キリストなのです。

 パウロがそれを据えたというのは、イエス・キリストを宣べ伝えたということに他なりません。この土台の上に、教会が、そしてそこに連なる私たちの人生が建て上げられていきます。

 それでは、パウロが宣べ伝えているキリストとはどういうキリストでしょうか。それは、2章2節に語られていたように、「十字架につけられたキリスト」です。パウロは、コリントにおいて、この十字架につけられたキリスト以外は何も知るまいと決意して伝道したのです。彼が据えた土台とは、「十字架につけられたキリスト」でした。

 パウロが据えた土台は、十字架につけられたキリストです。キリストが十字架につけられたのは、私たちの罪の赦しのためでした。

 私たちの罪がもしも、道徳的な教えによって自分で反省し改善、向上していくことで解決するようなものだったなら、キリストの十字架などそもそも必要なかったのです。しかし、私たちの罪は、神様の独り子が身代わりになって死刑になってくださらなければ赦されないほどに深刻なものでした。だから神様は独り子主イエスを遣わして、その十字架の死による救いを与えてくださったのです。これが、十字架につけられたキリスト、パウロが据えた土台です。私たちが自分で解決することのできない罪を、神様の独り子であるイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことによって、神様が赦してくださったのです。私たちはそのことを信じて、その神様の恵みに身を委ねるのです。十字架につけられたキリストが土台であるというのはそういうことです。

 そして、この土台の上に立つ時に私たちは、イエス・キリストの復活の恵みをも知ることができるのです。十字架につけられたキリストは、復活されたキリストでもあります。私たちの罪を背負って、身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストが、父なる神様によって三日目に復活させられた、そこに、私たちの罪と死とに対する神様の恵みの勝利があるのです。十字架につけられたキリストによる罪の赦しを人生の土台として与えられる者は、復活されたキリストにおける新しい命をも、人生の土台とすることができるのです。それが、洗礼における恵みです。洗礼において私たちは、主イエスの十字架の死にあずかって罪を赦されると共に、主イエスの復活にあずかって新しい命に生きる者とされるのです。そして、私たちは、神様によって、十字架につけられ、復活したイエス・キリストという揺るぎない土台を与えられていることを感謝しつつ、この土台の上に、み心に適う教会を建てるために、希望を持って神様から与えられたつとめに励んでいきたいと思うのです。

 きょうは教会創立記念・召天者記念礼拝として礼拝を神様にお献げしております。いまから103年前に、苫小牧教会は伝道を開始して以来、多くの信仰の先輩達が、「十字架につけられたキリスト」という土台の上にキリストの教会を御心に適って建てていくべく、努力してまいりました。わたしたちはきょうこの日に、あらためて、先に召された諸先輩達の信仰の足跡を偲び、明日に向けて神の御国の実現のために新たな一歩を踏み出していきたいと思います。そして、諸先輩達がこれまで築き上げてきたものを後世の信徒達にしっかりと受け継いでいくことができるように祈り求めてまいりたいと思います。

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