2021.6.27 主日礼拝
哀歌 第3章23〜33節

コリントの信徒への手紙二 第8章8〜15節

マルコによる福音書 第5章21〜43節

「少女よ、起きなさい」

 きょうの聖書の箇所でヤイロという人が登場します。彼は会堂長の一人だったとあります。会堂というのは、当時のユダヤ人たちの礼拝の場所であり、同時に学校や集会所でもあった、シナゴーグと呼ばれる場所であり、彼はその管理者だったのです。会堂長はいわゆるラビ、律法の教師ではありませんが、人々から信頼され尊敬されていた信仰者であり、私たちの教会で言えばさしずめ長老の一人というところでしょう。そのヤイロが、ガリラヤ湖のほとりにおられた主イエスのもとにやって来て、その足もとにひれ伏し、「重い病で死にそうになっている娘を助けてください」と願いました。主イエス・キリストは、み前にひれ伏して救いを求める者の願いに応えてくださる御方です。24節に「そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた」とあるのはそのことを示しています。

 しかし、彼らがヤイロの家へと急いでいる途中でハプニングが起こりました。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた一人の女性が、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れたのです。「この方の服にでも触れればいやしていただける」という思いによってです。主イエスはこの女性の思いを敏感に感じ取られました。そして群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言ってその人を見いだそうとなさったのです。ここにも、苦しみの中で救いを求めてすがってくる人の思いにしっかり応えてくださる主イエスのお姿が示されています。ヤイロに対してもこの女性に対しても、主イエスは同じように、深い苦しみの中から救いを求める思いを受け止め、それに応えてくださっているのです。ここに、この二つの癒しの出来事の共通性があります。そこにおいてこの二つの話は結びあっているのです。

 思わぬハプニングによって足留めをくっている間に、ヤイロの家から使いの者が来ました。そして、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と告げたのです。娘は死んだ、死の力がついにあの子を捕えてしまった、もう取り戻すことはできない、それはヤイロが最も恐れていたことでした。「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」。この言葉は深い絶望と諦めを語っています。藁にもすがる思いでイエスの救いを求めたけれども間に合わなかった、まだ息のある内なら癒してもらえたかもしれない、しかし今となってはもう、病を癒す奇跡を行うことのできる者であってもどうしようもない、死の力に捕えられてしまった娘を取り戻すことは誰にも出来ない、そのように告げる言葉をヤイロは聞いたのです。ところが36節に「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた」とあります。さらに主イエスは「子供は死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃいました(39節)。この主イエスのお言葉は、「この子を私が復活させる、目覚めさせる」ということなのです。そして主イエスはそのお言葉を実行なさいます。主は子供のいる部屋に入り、その手を取って、「タリタ、クム」と言われたのです。それは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味でした。まさに眠っている少女を起こすように、主イエスは彼女をお呼びになったのです。すると少女は、深い眠りから爽快に目覚めたかのように、すぐに起き上がって歩き出したのです。

 この少女の復活の出来事は、主イエスの十字架の死と復活とによって実現した救いを指し示しています。主イエスは十字架にかかって死んでくださることによって、私たちを脅かしている死をご自分の身に引き受けてくださり、私たちの身代わりとなって死んでくださったのです。そして父なる神様は死の力を打ち破って主イエスを復活させてくださいました。主イエスの十字架の死と復活とにおいて、神様の恵みが死の力に勝利し、私たちをその支配から解放してくださったのです。主イエスが死んで復活してくださったことによって、もはや私たちの死は、眠りに過ぎないものとなったのです。主イエスの復活にあずかって、私たちもその眠りから目覚める時が来ることが約束されたのです。私たちは誰もがいつか必ず死んで眠りにつきます。しかしその死は、もはや私たちを最終的に支配する力ではありません。神様が死の力を打ち滅ぼして私たちを目覚めさせ、復活の命、永遠の命を与えてくださることが約束されているのです。主イエスはこの少女を死の力から奪い返して両親に返してくださることによって、主イエスご自身の十字架の死と復活によって実現する救いの恵みを先取りして示してくださったのです。「ただ信じなさい」とは、この救いの恵みを信じなさいということであり、このことを信じる時に私たちは、「恐れることはない」という主の励まし、支えのみ言葉をも共に聞くことができるのです。

 私たちのこの世における歩み、人生には、自分ではどうすることもできない苦しみ悲しみや困難があります。抗うことのできない死の力によって愛する者を奪われてしまうことがあります。また自分自身も、病や老いによって次第に死の力に支配されていくことを体験させられていきます。ヤイロが味わった苦しみ、絶望を私たちも覚えるのです。そのヤイロは主イエスの足もとにひれ伏して救いを願いました。私たちにも、そういう機会が与えられています。それがこの主の日の礼拝です。わたしたちは、主イエスの足もとにひれ伏して真剣に救いを求めることも、この礼拝の中でこそできるのです。そのとき主イエスは私たちの願いに応えて、共に歩み出してくださいます。十字架と復活の主イエスが、この礼拝において私たちに出会ってくださり、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけ、私たちの手を取って、「わたしはあなたに言う。(恐れと不安の中から)起き上がりなさい」と告げてくださっているのです。

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