2021.6.13 主日礼拝
エゼキエル書 第17章22〜24節

コリントの信徒への手紙二 第5章6〜10節

マルコによる福音書 第4章26〜34節

「種は成長する」

きょうのところは、「神の国」についてのたとえが語られております。「神の国」は、神のご支配のことです。主イエスがここで語っておられるのは、神の国はもうあなたがたのところに来ている、あなたがたの間で今まさに実現しようとしている、ということです。マルコによる福音書1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というお言葉がそれを示しています。どこかにある神の国を求めなさいとか、今いる所が神の国になるように努力しなさいというのではなくて、あなたがたが生きているその現実、あなたがたのその人生そのものにおいて、神の国、つまり神様のご支配が今や実現しようとしているのだ、神様があなたがたの日々の生活を、恵みをもって支配してくださる、その神様のご支配がすでに始まっているのだ、と語っておられるのです。主イエスはそういう神の国の福音を宣べ伝えておられたのです。

 しかし、その神の国、神様のご支配は、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていません。私たちの生きているこの現実、この人生において神様の恵みのご支配が実現しようとしていることは、私たちの目にははっきりとは見えないのです。それは隠された事実、秘密にされている事柄なのです。それゆえに、マルコによる福音書4章11節には「神の国の秘密」という言い方がなされていました。神の国は「秘密」と表現されるような、隠された事柄なのです。その隠された神の国を、信じて生きることが、聖書の教える信仰です。隠されている神の国は説明によって理解して分かるようになるものではありません。主イエスがお語りになったたとえ話は、分かりやすい説明のための話ではなくて、隠されている神の国を垣間見させ、それが全く見えない現実の中で、なお神様のご支配を信じて生きる信仰へと私たちを招くための話なのです。

 「成長する種」のたとえによって主イエスが語っておられるのは、神の国は隠されており、目に見えないけれども、確実に前進し、成長している、ということです。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。このたとえに語られているのは、蒔かれた種が芽を出し、成長していき、実が実る、そのことはひとりでに起るのであって、種を蒔いた人はどうしてそうなるのかを知らない、ということです。種は蒔かれると土に埋もれてその姿は見えなくなります。隠されてしまうのです。しかし隠されていても、土の中で人知れず根を張り、成長していくのです。そしてやがて芽を出し、伸びていきます。その成長は「夜昼、寝起きしているうちに」進んでいきます。もちろん農夫はその作物の成長のために水をやり、雑草を刈り、肥料をやりと手を尽くします。しかしそれらは作物の成長のための環境を整えるということです。水を吸収し、養分を取り入れて成長していくこと自体は、その作物そのものの持っている力であって、それは人間の理解を超えた、またその力の及ばないことです。そのように作物は、28節にあるように「ひとりでに」実を結ぶのです。

 この「ひとりでに」という言葉は、人間の理解を超えた、人間の力の及ばないところで、神様が作物を成長させ、実を実らせてくださっているのだ、ということを語っているのです。神の国もそれと同じです。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国の種が、あなたがたのところにすでに蒔かれている。その神の国の種は、今は隠されているけれども、着実に成長を始めている。人間の理解を超えた、その力の及ばないところで、神様がそれを育て、実を結ばせようとしておられる。その収穫の時が今や近づいているのだ。「成長する種のたとえ」はそういうことを語っているのです。

 30節以下の「からし種」のたとえも同じことを語っています。このたとえ話のポイントは、蒔かれる時には地上のどんな種よりも小さいからし種が、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、ということです。粉粒のようなからし種が、3メートルぐらいにまで成長し、その葉陰に鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようになるのです。これも「神の国」のたとえです。神の国、神様のご支配は、今は隠されており、目に見えないので、この世の多くの人々はそれに見向きもしません。しかしそのからし種一粒のようにさえ見える神の国が、私たちの肉の目には隠されていても秘かに成長してどんな野菜よりも大きくなり、鳥がその葉陰に巣を作るようになる、それはただ大きくなるというだけでなく、人々がそこに平安や安心を見出す拠り所となる、ということでもあるでしょう。今は目にも止まらないような小さく弱々しいものに見える私たち教会の業が、実は大きな木のような神の大いなる業と繋がっているのであり、神は、必ず終りの日に神の国の秘密を私たちに明らかにしてくださるのです。そのことを主イエスはこのたとえによって語っておられるのです。

 ところで、34節によりますと「(主イエスが)たとえを用いずに(御言葉)を語ることはなかったが、ご自分の弟子たちには秘かにすべてを語られた」ということが述べられております。そのように主イエスから御言葉の説き明かしを聞いていた弟子たちでしたが、彼らとて神の国の秘密が本当に分かっていたわけではありません。主イエスが捕えられ、十字架につけられた時、彼らは誰一人として、最後まで従っていくことはできませんでした。皆主イエスを見捨てて逃げ去ってしまったのです。

 しかし、その後彼らは神の国のことを本当に信じる者となり、そして主イエスに遣わされて、この神の国の福音を宣べ伝える者とされていったのです。神の国は今、私たちをも巻き込んで前進しています。私たち一人一人の日々の生活が、人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。

 私たちは終りの日の豊かな収穫を待ち望みながら、旅人としての歩みを続けていきたいのです。その旅路において私たちは、主が私たちをも神の国の完成のために用いてくださる、その恵みをもまた私たちにお与えくださるということを実感することができるのです。

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