2021.6.6 主日礼拝
イザヤ書 第6章1〜8節

ローマの信徒への手紙 第8章12〜17節

ヨハネによる福音書 第3章1〜7節

「新たに生まれる希望」

 きょうのところでニコデモという人が登場いたします。彼はファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員であったとあります。「議員であった」とありますが、彼は最高法院と呼ばれる議会の議員でした。その議会は、ユダヤ人の宗教生活全般の監督が主な働きでしたが、民事や刑事に関わる裁判を行ったりもしていました。ニコデモはユダヤ社会での有力者でした。その人がわざわざ主イエスの許にやってきて、次のように言いました。2節

 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

彼は、「しるし」すなわち水をブドウ酒に変えるなどの奇跡の御業を主がなさっているという話を聞いて、主イエスが「神のもとから来られた」立派な先生だと思って興味を抱いて近づいたのです。 主イエスはニコデモの言葉に答えて言われました。3節

   イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ここでわたしたちは不思議な感じを受けます。疑問に思います。この二人の会話はかみ合っていないのではないかと。主イエスがニコデモの言葉に「答えて」となっていますから、ニコデモの言葉が主に対する質問になっているはずですがそうはなっていないのではないかと思えるのです。この会話は一見するとかみあっていません。しかし、主のお答えの言葉から推察するならば、ニコデモは主に対しておそらく「神の国を見るにはどうすればよいでしょうか」という質問をしたかったのではないでしょうか。「神の国を見る」とは「神のご支配を見る」「神のご支配にあずかる」ということであり、「神の救いにあずかる」ことです。主はニコデモに対して「あなたは古い生き方を捨てて、新しく生まれ直すことにより、神の救いにあずかれるのだ」とおっしゃったのです。ニコデモは「ファリサイ派に属する人」でありました。ファリサイ派は実生活においていつもどのようにしたら忠実に神の律法を守ることができるかということを考えて実践している人たちであり、そのことを民衆に指導していた人たちでした。ファリサイ派の人たちは、律法の教えを守ることにとても熱心な人たちでした。ユダヤ教の教えでは、律法を忠実に守ることによって神の救いが得られるとされておりました。ファリサイ派の人たちは、主イエスに敵対している人たちとして聖書にしばしば登場いたします。主イエスは愛よりも律法の教えを大切にするファリサイ派の人たちを非難しました。その主イエスに対して、彼らは憎しみの感情を抱いていました。ニコデモもそのファリサイ派の人たちの仲間でありましたが、救いについてユダヤ教の教えでは何か満たされないものを感じて、主イエスに興味を持ち、近づいたのでしょう。そのようなニコデモに対し、主は「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 とおっしゃいました。その主のお言葉の意味がニコデモにはわからず、年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうかというトンチンカンな質問をしてしまいます。その質問に対して主はお答えになりました。 5〜6節

  イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

 主イエスがここでおっしゃりたかったことは、「あなたは律法を守ることに汲々として、自分の力に依り頼んで生きるということにとらわれ過ぎている。あなたはそのような古い考え方を捨てて、わたしを信じ、親にすがる幼子のように、わたしにひたすら依り頼んで、すべてをわたしにゆだねて生きなさい。新たに生まれ直して歩みなさい。そのことは聖霊が助け導いてくださる。そのようにすれば、あなたは神の国に入れられる、神の救いにあずかれるだろう」とおっしゃったのです。

 ニコデモは、イエスという御方がそれまで数々の奇跡を起こしているという評判を聞いており、イエスは神の救いについて教えてくださるはずだと思っていました。ニコデモは主イエスに興味を抱いていました。彼は真の救いを求めていましたが、イエスをキリスト・救い主として信じることまではできていませんでした。彼は、律法を守ることを生き方の中心に据えており、おそらく律法を守ることにかけては誰にも負けない自負もあったのかもしれません。そのようなニコデモに対して、主は「自分の力により頼むな。親に頼る幼子のように、わたしにより頼め。」とおっしゃりたかったのです。そのことが「新たに生まれる」ということであったのです。しかし、それはなかなか自分だけの力では難しいことであるので、5節にあるように「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」ということをおっしゃたのです。「水」とは洗礼を暗示しており、また「霊」は聖霊のことでしょう。洗礼を受け、聖霊のお働きを願い求めることによって、「新たに生まれることができ、」「神の国に入ることができ」る、神の救いにあずかることができるということです。そのことを主はニコデモに勧めたのです。

 わたしたちはここで考えなければならないことがあります。はたしてこのニコデモの話はわたしたちにとって他人事であるのかどうか。わたしたちは、「神を信じる」と言いながら、自分の力を信じていないだろうかということです。神の力を信じないで、頼りにならない自分の力を信じているから、わたしたちはいつも不安な状態に陥ってしまうのです。わたしたちこそ聖霊のお働きと力を請い求めて、「新たに生まれる」ことができるようにならなければならない、すべてを主におゆだねして歩めるようにしていかなければならないのです。そのことによってわたしたちは、神の国に入ることができるようになる、神の救いにあずかることができるようになるのです。そのことはわたしたちにとって何にも勝る大いなる希望と言えるのではないでしょうか。

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