2021.5.30 主日礼拝
申命記 第5章12〜15節

コリントの信徒への手紙二 第4章5〜12節

マルコによる福音書 第3章1〜6節

「命を救うこと」

 主イエス・キリストは、あるときユダヤ教の会堂にお入りになりました。きょうの聖書の箇所の前のところで、安息日に麦の穂を摘んでいた弟子たちがファリサイ派の人たちにとがめられたという場面がありましたが、おそらくこれはその同じ安息日の出来事でありました。安息日において、その日には仕事を休むことが律法で定められておりました。この日は神の日として、この世界を創造してくださった神の御業をほめたたえ、神に感謝する日としてイスラエルの民は自分の仕事を休むことが義務づけられていたからです。それは十戒にも定められています。出エジプト記20章8節から11節にそれは記されてあります。

 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、

七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 これはイスラエルの民にとって大切な律法のひとつでした。ユダヤ教では、神から与えられた大切な律法を忠実に守ることによって神の救いが得られると堅く信じられておりました。ファリサイ派の人たちは、民衆に対してどうすれば神の律法を忠実に守ることができるかを教え、指導していた人たちでした。きょうの2節にある会堂にいた「人々」とはおそらく、ファリサイ派の人たちのことを指しているのでしょう。彼らがそこで、主イエスが片手の萎えた人を癒すかどうか、治療するかどうか注目していました。安息日に治療行為をすることは律法で禁じられていましたから、もし主イエスがそのようなことをするならば、すぐに、主イエスをしかるべき所に訴え出て主イエスを懲らしめようとしたのです。彼らは、先ほどすでに安息日なのにもかかわらず主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んでいたのを、律法で禁じられていた収穫の行為とみなして問題にしていたからです。

 そもそも安息日は、神の創造の御業に感謝するために設けられていたのに、その本来の安息日の意義から離れて、ファリサイ派の人たちは安息日において具体的に何をしてよいか悪いかということを議論して、細かい規定をつくってそれらを忠実に守ること自体を自己目的化して、民衆にそのことを強制していたのです。まさに「本末転倒」です。それに対して主イエスは、27節にありますように「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」とおっしゃって、ファリサイ派の人たちを批判なさったのです。

 きょうのところで主イエスは「片手の萎えた人」をお癒やしになりました。「片手の萎えた」とは、おそらく片手が麻痺した状態を言うのでしょう。「萎えた」という言葉は直訳しますと「乾燥した」となります。その人は片手の機能がほとんど働かなかったのです。主は、彼をその会堂内にいた人たちの中から連れ出され、真ん中に立たせ「手を伸ばしなさい」とお命じになり、その手をお癒やしになりました。律法では、安息日には治療行為全般についてしてはいけないと禁じられていたわけではありません。生きるか死ぬかの緊急の対応を要する場合には認められていたのです。しかし、この場合は急を要するケースではありませんでした。「萎えた手を癒す」という治療行為をわざわざその日にしなくてもよかったのです。ではなぜ主イエスはいさかいを巻き起こすようなことをわざわざ安息日になさったのでしょうか。

 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。(4節)

 主イエスは、片手が萎えた人をお救いになることにためらいはありませんでした。主イエスには「安息日が過ぎてから」という選択肢はありませんでした。たとえ片手の萎えた人の障がいが命の危機につながるようにはわたしたちの目には見えなくても、主イエスのとっては、それがその人の命に関わることだとみなされたのです。主イエスは愛なるお方であるからです。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

 選択肢は「善を行うことか、悪を行うことか」「命を救うことか、殺すことか」のどちらかであり、その中間はないということです。主イエスのその問いを前にして沈黙しているのは、救いを求めている人を「殺すこと」を意味すると主はおっしゃっているのです。これは主の厳しい問いかけです。

・・・彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった

。  隣人の救いについて、会堂にいた人たちが黙っているのをご覧になって主はお怒りになり、人の救いよりも律法の遵守を優先しようとする彼らの心のかたくなさを悲しまれたのです。主イエスは、律法を守ることよりも愛を優先なさいました。その選択はしかし、主イエスの命に関わることでした。命がけのことでした。

 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(6節)

 ファリサイ派の人たちは、神の救いは律法を守ることによって得られるということを信じていた人たちでしたから、主イエスの振る舞いは彼らの目には律法をないがしろにするように映りました。彼らは主を憎みました。それは、主に殺意を抱くほどの激しいものでした。主はこの時から十字架の道を歩まれることになります。主が愛を貫かれたのは命がけのことでした。主の弟子として歩もうとするわたしたちに対して主はわたしたちにいつも先ほどのような問いを投げかけておられます。主はわたしたちに愛の道に歩むように招いていてくださっているのです。それは神の国への招きでもあるのです。わたしたちは、その主の招きに誠実にお応えして行くことができる者とされたいと思います。

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