2021.5.23ペンテコステ礼拝
エゼキエル書 第37章1〜14節

使徒言行録 第2章1〜21節

ヨハネによる福音書 第15章26節〜第16章15節

「聖霊が降る」

 わたしたちが読んでおりますこの箇所は「決別説教」と呼ばれているところです。主イエス・キリストが捕らえられ十字架にかけられる前に弟子たちに対して語られた説教です。

 26節に「弁護者」という言葉が出て来ますが、ここは口語訳聖書では「助け手」となっておりました。わたしたちの側にいて弁護してくれる人、助け手、裁判での弁護士ということです。その弁護者は、主イエスが十字架にかけられ死なれ、天の父なる神様の御許に挙げられた後で、わたしの後にあなたたちのところに遣わされるのだと主はおっしゃいます。弟子たちは主が彼らと別れを告げられるということを聴いてとても不安になっていましたから、主は彼らを慰めようとなさったのです。いつもわたしたちと一緒にいてくださり、助けてくださった主イエスがいなくなったら一体どうなるのだろうかと弟子たちが不安になったのも無理もないことです。その弟子たちを助けるために主は真理の霊、聖霊を送ると約束してくださったのです。聖書で言われる霊、聖霊とは何でしょうか。聖霊は、原典でプネウマと言いますが、これはもともと「風」という意味です。旧約聖書では「神の息」です。神様は人間を創造されました。まず土で人間の形を造り、その鼻に命の息を吹き入れられ、命を与えられ、人間アダムが造られました。聖霊とは何か実体があるのではなく、働きとしてあるものです。聖霊は、風が吹けば木や建物が倒れたりするように、力を持っています。聖霊はわたしたちの弁護者、助け手としてわたしたちに力を与え、働いてくださるのです。26節に

 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」

とあります。ここで「証をする」とあるのは、生前の主イエスの言動にどんな意味があるのかをわからせてくださる、示してくださるということです。弟子たちは主の生前にはその意味がわからなかったのです。特に、この世にいる苦しんでいる人たちを救ってくださり、イスラエルの民を解放してくださる御方と信じてその後にお従いしていた先生イエスが無残にも十字架の上で殺されてしまったということを弟子たちはどのように解釈して良いのかわからないのです。その死の意味はとても深いものでした。その十字架の死と復活は、人間の真の救いのためでありました。人間はアダム以来大きな罪を犯してきました。人間は、神様から食べてはいけないと禁じられていた知恵の木の実を食べることによって、神のようになろうとし、神に背き、神中心の生き方から離れて自分中心の生き方を選んでしまいました。そのことが聖書で言われる「罪」ということですが、その罪により人間は自己中心的に生き、お互いに愛することができず、愛するどころか傷つけ合い、殺人の罪を犯すまでなってしまいました。罪を犯した者は裁かれなければなりません。神様はそのような深い罪を犯すようになってしまった人間の代わりに、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられ裁かれました。それはわたしたちの罪が赦されるため、わたしたちが救われるためだったのです。主イエスが十字架にかけられ死なれたとき弟子たちにはその意味がわかりませんでした。人間を苦しみから救い、ローマ帝国に支配されていたイスラエルを救ってくださるのは力強い御方だと信じてお従いしていたのにまさかこんなに無残な仕方で無抵抗のままで殺されるなんて彼らには信じられないことであり、衝撃的なことでした。そのことを中心にして主が生前に語っておられたこと、数々の奇跡の出来事の意味が、真理の霊、聖霊の働きによって示されると主は弟子たちにおっしゃったのです。同時に27節にもありますようにあなた方も証をするのであるとおっしゃいました。神の救いを証し、宣べ伝え、福音を宣教するように弟子たちにお命じになりました。 16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。

主イエスは弟子たちに対して、弟子たちが礼拝の際にユダヤ教徒とともに使用していた会堂から追い出され、死の危険を伴うような迫害にあうだろうと預言なさいました。このことは実は、このヨハネによる福音書が書かれたとき、おそらく主イエスの死から50年以上も後の頃においてヨハネの教会が経験していたことでした。当時ヨハネの教会はユダヤ教徒から激しい迫害を受けていたのです。もともとキリスト教はユダヤ教の一派としてユダヤ教徒からも認められていましたが、あるときから様々な事情で会堂から追い出され迫害を受けるようになってしまいました。ヨハネによる福音書の著者は、そのことも念頭に置いてこの福音書を書いているのです。主イエスが真理の霊、聖霊を送ってくださって、迫害のなかにあって動揺している弟子たちを励まし力づけて、困難のなかにあってもあきらめることなく神の救いを証ししていくことをお命じになったのです。

 現代に生きるわたしたちは、ヨハネの教会のときのような厳しい迫害はありませんが、キリストの弟子として歩もうとするとき、特にこの異教の国日本では様々な生きづらさを感じさせられます。しかし、そのようななかでも主はわたしたちのために真理の霊、聖霊をいまも送って助けてくださっています。聖霊の力は特に教会のなかに働きます。それは、使徒言行録にもありますように聖霊が弟子たちのいるところに降って教会が始まったということと大いに関係があるのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)

 教会はこの世でもっとも強く聖霊の力が働くところです。そのことを起こしてくださる神に深く信頼して、困難の中にあっても教会の群れにおいてお互いが愛し合い、祈り合って力強くこの世に神の救いを証しする者たちとなれるように祈り求めてまいりましょう。

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