2021.5.9主日礼拝

詩編 第98篇1〜9節

ヨハネの手紙一 第4章7〜10節

ヨハネによる福音書 第15章9〜17節

「互いに愛し合いなさい」

 愛とはなんでしょうか。聖書の教えによれば、愛とは無償の愛であり、敵をも愛する愛です。それは、自分のことを愛してくれている人を愛するだけではなく、自分に敵意を抱いている人にも向けられるべきものです。愛と言えば、世の中では男女の間の情熱的な愛、情愛のことを指すことが多いのですが、聖書が教える愛は、このような男女間の情熱的な愛や、自分の子供を自分の意のままにしようとするような親の愛情(偏愛)などとはまた別のものです。主イエスが求められる愛は相手に対して見返りを求めるようなものではありません。相手からの見返りを求めるものは、愛とは言えません。

 わたしたちは「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と命じられても「そんなことはできっこない」と半ばあきらめてしまってはいないでしょうか。ここで「愛しなさい」と言われるのは、お互いを好きになれということではありません。好きになることと愛することはイコールではありません。わたしたちはすべての人を好きになれればよいのですが、なかなかそうはいきません。相手から理由もなく嫌われるということは世の中ではたびたび起こります。まことに理不尽なことですが、これは仕方のないことです。最初はお互いに好意を抱いて親しく付き合っていたとしても、あるとき何かのきっかけですれ違いが生じ、憎しみ合ったりすることも起こって来たりします。

 しかし、たとえお互いに好きになれなくても、愛することはできます。職場の人間関係などは特にそうです。企業ではひとつの目標があります。事業の活動を通じた社会貢献と利益の追求という目標のために会社に人が集まって仕事をしています。会社で利益が生まれて売り上げが増えれば、社員の給料も上がり、家族も喜びます。そういう目標を追求するというところが会社なのであり、そこで働く人たち同士がたとえお互いがお互いを好きになれなくても苦手なところがあっても、目標の達成のためになんとか忍耐して付き合っていくことができます。お互いが好きになれなくても、自分の持っているものを差し出してお互いが協力し合うことができます。それも愛なのではないかと思うのです。自分の利益のことだけを考えるのではなく、隣人のために自分の持っているものを献げることそのことも愛から出ることです。13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。これは愛する友のために命を捨てろと主が命じられているということのでしょうか。必ずしもそういうことではないと思います。ここで「捨てる」と訳されている言葉は「物を棚の上に置く」などというときの「置く」ということも意味する言葉です。自分の持っているものを隣人のために置く、与える献げるという意味もあるのです。命まで献げるということまでしなくとも、隣人のために自分の持っている能力や賜物や財産などを隣人のために用いていくことです。職場においては、仕事はそもそも給料をもらうための手段だという考えで仕事をしていいる人もいるかもしれませんが、そうではなく、仕事を通して自分の持っているものを隣人に与えて、職場の人たちや社会に対して役に立てるように用いるということが仕事のあるべき意味なのではないでしょうか。  わたしたちの隣人への愛は見返りを求めるものであってはならないと思います。それはもはや主がお命じになる愛ではありません。主イエス・キリストは、そのご生涯において見返りを求めて人間を愛してくださったのではないからです。主は、見返りどころか恩を仇で返されるようなことを多く経験されました。主は人間の救いのためにお働きになったのに、その恵みを受けたはずのユダヤ人たちによって十字架につけられ殺されてしまったのです。もちろん、わたしたちは完全に主イエスと同じようには生きることはできませんが、しかし、その生き方にならって、相手に見返りを求めない無償の愛を注いで隣人を愛したいと思います。そのことこそが、主がわたしたちにお求めになっておられる最も大切なことなのです。9節から10節をご覧ください。

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 主イエスの愛にとどまることができるためには、主の掟、すなわち、「互いに愛し合いなさい」という掟を守っていくことが必要なのです。14節にもありますように、驚くべきことに、その掟を守るならば主はわたしたちをご自分の友と呼んでくださるのです。

 先ほど、「隣人への愛は相手に対して見返りを求めない愛であるべきだ」と申しました。この世では現実に隣人への愛を与えても感謝されるどころか恩を仇で返されるというようなことがしばしば起こり、わたしたちはひどく落胆させられます。このようなとき神様は黙ってそれを見ておられるだけなのでしょうか。いやそうではありません。わたしたちの見えないところで働かれている神様は、そのことを心にとめてくださいます。わたしたちを主イエスの友として選んでくださった神様は必ずわたしたちに報いてくださいます。それが16節にあります「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにわたしがあなたがたを任命したのである」ということの意味なのです。そのことを信じて、「互いに愛し合いなさい」という主の大切な戒めを誠実に守っていくことができるように祈り求めてまいりましょう。

天の父なる神様

 わたしたちは罪深い者たちでありますけれども、隣人同士お互いに赦し合い、助け合い、祈り合い、愛し合って生きていくことができますようにわたしたちの信仰の力を強めてください。この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

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