2021.5.2.主日礼拝
    ヨシュア記 第1章1〜9節、ルカによる福音書 第24章44〜53節

「祝福に満ちた結末」

 これまで2年半以上前から礼拝において読み続けてきたルカによる福音書を本日をもって読み終えることになりました。

 ルカによる福音書の最後の章である24章において、主イエスは、復活なさったあとでも弟子たちに目に見えるお姿を現してくださいましたが、一方でわたしたちはどうでしょうか。わたしたちにはそれがありません。弟子たちはここで、復活した主イエスを目の前に見ています。弟子たちは一時であれ、目に見える仕方で主イエスと出会うことができたのです。しかし私たちはそうではありません。私たちは、この目で見ることなしに主イエスを信じ、目に見えない主イエスと共に歩まなければならないのです。弟子たちと私たちのこの違いは何によるのでしょうか。弟子たちは、一時にせよ復活した主イエスのお姿を見ることができたのに、どうして私たちにはそれがかなわないのでしょうか。

 それは、本日の箇所の50節以下に語られているように、主イエスが天に上げられたからです。51節に、「彼らを離れ、天に上げられた」とあります。それを主イエスの昇天と言います。「天に昇る」と書く「昇天」です。それは死んだという意味ではありません。体をもって復活した主イエスが、その体において地上を離れて天に上げられたのです。復活からその昇天までの間、主イエスは繰り返し、目に見える仕方で弟子たちの前に姿を現されました。しかし昇天以後はもう、この地上で、目に見える仕方で主イエスにお目にかかることはなくなったのです。

 きょうの聖書の箇所にもありますように、復活なさった主イエスは弟子たちに様々な言葉をお語りになりました。それらのお言葉はどれも、主イエスの昇天によって始まろうとしている新しい時代、目に見えない主イエスを信じて生きていくという時代を迎えようとしている弟子たちに、その備えをさせるために語られていると言うことができると思います。

 目に見えない主イエスを信じて生きていくということに備えさせるために、主イエスはきょうのところで弟子たちに聖書を説き明かしてくださいました。聖書に何が語られているのかを示し、それがご自身の十字架と復活によって実現したこと、そしてこれからも実現していくことをお語りになったのです。そのことによって主イエスが教えてくださったのは、目に見えない主イエスを信じて生きていく私たちの信仰を支え、導き、励ますのは聖書の御言葉だということです。聖書が説き明かされることによってこそ、主イエスをこの目で見ることができない私たちにも、信仰が、罪の赦しを得させる悔い改めが与えられるのです。しかし、聖書に書いてあることの内容をただ知識として知っていても、それで信仰が得られるわけではないし、罪の赦しを得させる悔い改めに至ることはできません。必要なのは、聖書を本当に悟ることです。そのことを語っているのが45節です。「そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。復活した主イエスが弟子たちにしてくださったのは、ただ単に聖書を説明し、ご自分について書かれていることを教えてくださった、ということではなかったのです。主イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いてくださったのです。聖書に語られている神様の救いの御心が主イエスの十字架と復活において実現し、これからも実現していくことを私たちが本当に知るためには、心の目を開かれなければなりません。そして大切なことは、私たちの心を、心の目を、開いて下さり、聖書によって心燃える体験(32節)を与えて下さるのは、聖霊なのです。

 ところで、50節にあります「祝福する」という言葉は、その言葉の成り立ちにおいては、「良い言葉を語る」という意味です。天に上げられ、目に見えなくなった主イエスは、弟子たちに、信仰者に、常に「良い言葉」つまり恵みの言葉、救いの言葉、罪の赦しの言葉を語っていてくださるのです。ルカによる福音書が主イエスの昇天において強調しているのはこのことです。そしてそれゆえに52節以下には、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と語られています。「大喜びで」とあります。昇天によって主イエスのお姿が見えなくなったのです。目に見える仕方ではもう共におられなくなったのです。それなのに彼らは「大喜び」した。それは、主イエスがいつでも祝福していてくださること、良い言葉、恵みの言葉、救いの言葉を語りかけていてくださることを弟子たちが確信したからです。

 主イエスのお姿は昇天によって肉の目には見えなくなりました。しかし主イエスと彼ら弟子たち、信仰者の間には、このような、主イエスが常に祝福を与えて下さり、それに応えて信仰者が神を礼拝し、ほめたたえるという関係が打ち立てられたのです。復活した主イエスが、弟子たちとの間にそのような関係を打ち立てるために、様々な仕方でご自身を現し、語りかけて下さったことをこの24章は語っています。このような周到な準備を経て、ペンテコステの出来事、聖霊が降り教会が誕生するという、救いの御業における新しい展開がなされていったことをルカによる福音書はそのしめくくり、結末において語っているのです。この恵みの中で私たちもいま、礼拝において聖書の御言葉の説き明かしを受け、聖霊のお働きによって心燃やされつつ、目に見えない主イエスを信じ、その祝福にあずかり、そして主イエスの父である神様に喜びと賛美と感謝の言葉を語りつつ生きることができるのです。

それではお祈りをいたします。

天の父なる神様

 どうかわたしたちの心の目を開いてくださり、主がいつもわたしたちと共にいてくださり、救いを与えてくださっていることを確信して困難の中にあっても希望を持って歩むことができるようにしてください。この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

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