2021.4.25.主日礼拝
    イザヤ書 第35章1〜10節、ルカによる福音書 第24章36〜43節

「からだの復活」

 先週の礼拝説教においても取り上げましたが、復活された主イエスは三人(クレオパともう一人そしてシモン)にそのお姿を現されました。彼らはそのことをきょうの聖書の箇所においてエルサレムで他の弟子たちと語り合っていたとあります。おそらく彼らは夢中でそのことを語り合っていたのでしょう。そのときそのところに主イエスが現れました。主は彼らの真ん中に立たれたのです。彼らはとても驚き、亡霊を見ているのだと思いました。しかし、彼らはすでにクレオパやシモンの目撃証言を聴いていたのです。その三人もその語りの場にいたはずです。その証言を聴いていたにもかかわらず、弟子たちは主の復活を信じることができなかったのです。それほどまでに主のご復活ということは弟子たちにとって信じがたいことだったのです。そのような弟子たちをご覧になって、主は、わたしの手足を見なさい。触ってみなさいとおっしゃいました。そしてさらに、焼き魚を食べて見せることまでなさったのです。このことは何を意味しているのでしょうか。主は何を言おうとなさっていたのでしょうか。それは、主のご復活が観念的なことなどではなく、肉体を伴って現実に起こったということを示そうとなさったのです。主のご復活は、「あの人は死んだけれどもわたしたちの心の中でいつまでも生き続けています」というようなことではなかったということです。主のご復活が、弟子たちの心の中だけの出来事ではなかったということです。それは主が現実にからだごと復活なさったということだったのです。しかし、きょうのところのように、主が弟子たちにお示しになったようなことは、わたしたちには現実には起こりません。わたしたちの目には主のお姿は見えません。けれども、わたしたちには聖霊のお働きによって復活の主が共にいてくださるということが示されます。特にそれは毎週の礼拝において示されます。御言葉の説教によって、聖餐式において、そのことがわたしたちに示されます。礼拝においてわたしたちは主の御声を聴き、御姿を仰ぐことができます。その根本には、聖霊のお働きと共にわたしたちの信仰があります。  それでは、主イエスを信じるということはどういうことでしょうか。主の教えを信じることでしょうか。それも含まれますが、それだけではなく、主を信じるとは、主がわたしたちと共にいてくださって、わたしたちを守り、救っていてくださるということを信じることなのです。それを信じる信仰は、御言葉の説教に聴くことによって起こされるのです「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙10章17節)。

 わたしたちは、復活の主がわたしたちと共にいてくださることを信じて、困難の中にあっても希望をもって生きることができるように祈り求めてまいりましょう。

 天の父なる神様

 どうか復活の主がわたしたちと共にいてくださっていることを信じさせてください。そのことに希望を持って生きることができるようにしてください。目に見える何ものよりも確かな、あなたの救いを確信していくことができる信仰をお与えくださいますように。この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

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