2021.4.18.主日礼拝
    アモス書 第9章11〜15節、ルカによる福音書 第24章28〜35節

「目が開け、イエスだと分かった」

きょうのこの礼拝においては、28節以下を中心に読んでいきますが、そこには、夕方になって彼らがエマオの村に着いた時のことが語られています。道々聖書を語ってくれた(27節)あの旅人すなわち主イエスはなおも先へと歩み続けようとしていました。二人はその人に、もう夕方だから自分たちと一緒にこの村に泊まるように勧めました。「無理に引き止め」たと29節に語られています。彼らはこの人の語る聖書の話を、もっと聞きたかったのです。そのようにして彼ら三人は夕食の席に着きました。その席で、主イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。するとその時、二人の目が開け、イエスだと分かったのです。彼らはこの時ようやく、主イエスが本当に復活して生きておられることを信じることができるようになったのです。

 彼らが主イエスと共に食事の席に着いている中で復活した主イエスとの出会いを与えられたことは大きな意味を持っています。そこには、主イエスの復活を信じる信仰がどのようにして得られるのかが示されているからです。彼らが主イエスの復活を信じたのは、「主イエスは復活して生きておられる」という知らせを聞いたことによってではありませんでした。また主イエスの十字架や復活について、人間どうしの間であれこれ論じ合うことによってでもありませんでした。主イエスご自身によって道々聖書の説き明かしを受けたことによってですらなかったのです。主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスと共に食事の席に着き、主イエスが分け与えて下さるパンをいただき、食する、その体験の中でこそ与えられるのです。主イエスの復活を信じて生きるとは、復活して今も生きておられる主イエスが招き、分け与えてくださる食事にあずかりつつ生きることです。つまり私たちの信仰は頭や心の中だけの事柄ではなくて、むしろこの体をもって味わい、体験していくものなのです。主イエスの復活という奇跡も、頭の中で考えているだけではいつまでたっても本当に分かり、信じることはできません。生きておられる主イエスとの出会いと交わりの中でこそそれを信じることができるのです。

 主イエスが招き、分け与えてくださる食事、それは教会の礼拝において行われる聖餐を意味しています。「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」という主イエスのお姿は、十字架につけられる前の晩のいわゆる最後の晩餐においてパンを裂いて弟子たちに分け与え、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃった主イエスのお姿を思い起こさせます。これが、礼拝の中で行われる聖餐の起源となりました。聖餐において私たちは、主イエスが招き、分け与えてくださる食事にあずかるのです。そしてそこで、復活して今も生きておられる主イエスとの出会いと交わりを体験するのです。聖餐は、主イエスが十字架にかかって肉を裂き、血を流して私たちの罪の赦しを実現してくださったことを覚え、その恵みにあずかる食事です。そしてその食事の場は復活して今も生きておられる主イエスとの出会いの場ともなったのです。

 しかし、この食事が、復活した主イエスとの出会いの場となるためには、備えが必要でした。主イエスご自身が聖書を説き明かしてくださったこと、つまり主イエスの説教を聞いたことがその備えとなったのです。そのことを振り返って彼らは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。聖書の説き明かしによって心が燃える体験をすること、言い換えれば、聖書の言葉が自分に対する神様からの語りかけとして響いてくること、それが、主の招いてくださる食卓における主イエスとの出会いへの備えとなったのです。聖書の説き明かしによって、主イエスが招いてくださる食卓における出会いへの備えがなされる、それは私たちの礼拝で言えば、説教と聖餐の関係を表しています。礼拝において、説教を聞くことと聖餐にあずかること、その二つが結び合う所に、主イエスとのまことの出会いが与えられ、復活して生きておられる主イエス・キリストと共に歩む信仰が与えられるのです。

 主イエスを中心とする食卓において、目が開け、イエスだと分かった、そのとたんに、「その姿は見えなくなった」と31節にあります。彼らが主イエスの復活を信じることができなかった間は、主イエスは目に見える仕方で共に歩み、語りかけ、教え、パンを分け与えてくださったのです。しかしそれが主イエスだと分かり、復活して生きておられる主イエスが共にいて下さることを彼らが信じたとたんに、そのお姿は目に見えなくなりました。それは、主イエスが復活して生きておられ、共にいて下さることを信じた者は、もはやそのお姿をこの目で見る必要はないからです。そしてそれが、信仰者として生きる私たちのこの世における生活です。私たちは、復活して生きておられる主イエスが、肉体の目には見えない仕方で共にいて下さることを信じて生きるのです。それは決して不確かな、あやふやなことではありません。むしろ私たちはだからこそ、いつでもどこでも主イエスと共に歩むことができるのです。どのように暗い、困難な状況においても、目に見える現実には何の救いも助けも見出せないような中でも、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエスが共にいて下さることを信じ、その主イエスに依り頼み、そこに希望を見出すことができるのです。

天の父なる神様

 どうかわたしたちの心の目を開いてくださり、復活の主が共にいてくださることを信じさせてください。どうかそのことによってわたしたちが、困難の中にあっても希望を持って生きることができるようにしてください。この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

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