2021.3.28.受難週礼拝
    レビ記 第16章1〜16節、ルカによる福音書 第23章44〜49節

「絶望の中の光」

  きょうから受難週に入ります。受難週とは、レント・受難節の最後の一週間のことです。きょうの聖書の箇所は、主イエスが死なれたところです。主イエスは神であられましたが、人でもあられました。人は必ず死を迎えます。わたしたちも必ず死にます。誰一人例外なくです。主イエスの死は、罪のない御方が無実の罪で死刑で殺されるという特別な死でした。

 主イエスは、今際の際(いまわのきわ)に言葉を発せられます。46節をご覧ください。「イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。これは詩編31篇6節にある言葉とほぼ同じです。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください」この詩編の言葉はイスラエルの民が「夕べの祈り」として大切にしてきたものです。この主の最後のお言葉は、天の父なる神様への祈りでもあったのです。

    47節に百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したとあります。百人隊長とはローマ帝国の将校です。彼は異邦人です。それまでイエスを犯罪者の一人くらいにしか考えていなかったであろう彼が、主イエスの最後を見て、主イエスの無罪を確信し、神を讃美したのです。百人隊長は、主が死の間際に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」とおっしゃって、天の父なる神様に深い信頼を寄せて祈られたというお姿を見て、その有様を見て、この百人隊長は、この御方は犯罪人の一人などでは決してなく、救い主キリストだということがわかったのでしょう。伝説によれば、この百人隊長はのちに洗礼を受けてキリスト者になったということです。

 主イエスは十字架の上でわたしたちが想像もできないような大きな苦しみを味わわれました。しかし、苦しんで苦しんでその苦し見抜いたその果てに、主イエスは、天の父なる神様にご自分の霊をゆだねますとおっしゃることができたのです。「ゆだねる」とは直訳しますと「前に置く」という意味です。神様に自分自身を自分の全てを差し出すということです。主イエスは、十字架の上で大きな苦しみを味わわれましたが、死の間際は、天の父なる神様にご自分の魂をゆだねられたのです。それはすべてを突き抜けた境地でした。主は苦しみの末にそのような境地におられたのです。

 人間は死の床で、死の間際になにか言葉を発する、語ることは実際にあることです。それはその人の人生の最後に発せられる言葉であり、重みがあります。わたしたちは、いまわのきわにどういう言葉を残すことになるのかそれはそのときになってみなければわかりません。しかしこれまでの人生を振り返って死の間際にひとこと語るとすればそれはわたしたち自身にとって大切な言葉であるはずです。ですから、主イエスが地上のご生涯の最後の最後に発せられた言葉「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という言葉は、わたしたち人間のものよりもはるかに重要な言葉であったのです。主イエスは、ご自身の地上のご生涯におけるこの最後のお言葉によって、わたしたちが神様を信頼して神様にわたしたち自身の全てをお献げして生きることを、わたしたちに大切なこととしてお伝えになりたかったのではないでしょうか。

 神様にすべてをゆだねて生きることを主イエスはわたしたちに信仰上大切なこととしてお示しになりました。しかし、わたしたちは神様にゆだねて生きているでしょうか。ゆだねて行きたいと言いながら「自分が、自分が」と自分が前に出すぎてしまって焦りばかりが募るということが多いのではないでしょうか。わたしたちは「本音と建て前」を使い分けていないでしょうか。しかし、「ゆだねて生きる」ことが律法のようになってしまっては辛いことです。

 それでは、ゆだねるためには、何が必要なのでしょうか。それは神様への深い信頼です。主イエスは地上のご生涯でたびたび「父よ」と祈られました。これは親しさを込めた呼びかけです。父に甘える子供のような呼び掛けです。主はルカによる福音書の18章17節で「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」 とおっしゃいました。子供は、自分の力で生活していくことはできません。大人に、親に頼って生きるほかはありません。それは親への全面的な信頼が基礎にあるのです。

 なぜ主はご自分の死に際して、「わたしの霊をゆだねます」とおっしゃることができたのでしょうか。それは、両手を拡げて自分を迎えてくれる父や母の胸にまっすぐに飛び込んでいく子供のように、主イエスは父なる神様に完全に信頼しきっておられたからです。だからこそ、今際の際に「わたしの霊を御手にゆだねます」とおっしゃって息を引き取られたのです。主イエスはご自身が天の父なる神様への全面的な信頼の内に生きておられたのです。

 絶望的とも思える状況の中で主イエスが天の父なる神様に信頼の祈りの言葉を発せられたこと、そのことはわたしたちの希望の光です。天の父なる神様はいかなる状況の中であってもわたしたちを憐れんでくださり、顧みてくださいます。事実主イエスはこのあと三日の後に復活なさったのです。たとえわたしたちの目には希望がまったくないと思えるようなときにも、わたしたちは神様を信頼して歩みたいと思います。それこそがわたしたちが持つべき信仰なのです。しかし、とはいえそのような信仰はわたしたちがもともと持っているものではありません。信仰も恵みとして神様から与えられるものです。そのような信仰が与えられるように祈り求めていくならば神様はきっと憐れみをもって応えてくださるはずです。天の父なる神様にすべてをおゆだねして生きることが日々できるようにいつも祈り求めてまいりましょう。

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