2021.3.21.主日礼拝
    詩編 第51篇1〜21節、ルカによる福音書 第23章39〜43節

「きょう、主イエスと一緒に楽園に」

 きょうの聖書の箇所は、十字架上の主イエスが同じ十字架にかけられた犯罪人ふたりと対話する場面です。他の福音書にはこのような記述はありません。ルカによる福音書だけにこの話は入っています。ここで、救いについてのとても大切な意味がこめられています。39節 「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」

 犯罪人の一人が主イエスをののしります。「メシアなら自分を救ってみろ。」これは前のところで「メシアなら、イスラエルの王なら、自分を救ってみろ」という民衆や議員、ローマ帝国の兵士たちと同じ言葉です。ひどい侮辱の言葉です。一方もうひとりの犯罪人がたしなめます。40節〜41節

 「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」

 彼は主イエスのことを前から知っていたのでしょうか。知っていたとしてもそれほど深くは知らなかったのではないでしょうか。

 それではなぜ彼は40節41節のようなことが言えたのか。34節に「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」とおっしゃって、十字架の下で、ご自分を嘲り、ののしり、十字架につけた人たちに対する罪の赦しを神様に願った言葉を彼は隣で聴いていて大きな衝撃を受けたはずです。自分を十字架につけ、嘲り、罵ることまでしている者たち対して、普通なら恨みつらみの言葉こそ出ても、そういう人たちの罪の赦しを祈るなどということは普通はできないはずです。自分が苦しみの極みにある中で、極限状態にある中で自分を憎み、ののしり、嘲る人たちの赦しを神様に祈れるこの御方はどういう人なのだろうと彼は深く考えさせられたはずです。そしておそらく彼は、これは神のお考え、神の教えに関わることなのではないかと思い至ったのです。それが40節にあります「お前は神をも恐れないのか」という言葉に表されています。

  「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。」ここにあります「同じ刑罰」とは十字架刑のことですが、「何も悪いことをしていない」御方がなぜこの犯罪人と同じ刑罰である十字架刑という死刑に処せられなければならなかったのか。それには何か理由があるに違いない。それは神様のなさることに関わることではないのか。これは救いに関わることではないのだろうかと彼は考えたのでしょう。彼はそのことに衝撃を受け、この御方こそ神からのメシア・キリスト・救い主だと確信したのではないでしょうか。彼は「いまわのきわに」自分の救いについて考えたのです。

 しかし、彼は「自分は神に救っていただけるような身分ではない。とてもそんな資格はない。わたしがしてきたことの数々はとても罪が深いことでとても赦されることではない」と思いました。「主イエスが十字架の上で亡くなられて神の御国へお出でになるときには、思い出していただくだけでよい。そのことだけで自分は満足である」と思ったのです。42節をご覧ください。「『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」すると主イエスは彼に次のようにおっしゃいました。43節です。「『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』」と言われた。」 ここにあります「楽園」とは英語で「パラダイス」ですが、旧約聖書では「エデンの園」の園の字がこの言葉です。旧約聖書の創世記にありますこの「エデンの園」は、神様の戒めを守ってアダムとエバが幸せに暮らしていたところです。彼らは「知恵の木の実」以外はどの木からとって食べてもよいと言われていたのに、神様の戒めに背いて、蛇にそそのかされて知恵の木の実を食べてしまい、この楽園から追放されてしまいます。主イエスは、この十字架につけられた犯罪人の言葉をお聴きになって、あなたは楽園に招き入れられるとおっしゃいました。「はっきり言っておく」という言葉は「確かに、しっかりと断言する」という意味で、主イエスの確かなお約束を意味する言葉です。この犯罪人は自分の罪を深く悔いて、悔い改めて、神様に心をしっかりと向けたのです。改心したのです。それを見て主イエスは彼を深く憐れんでくださり、彼を神の祝福と喜びの中に招き入れるとお約束になったのです。彼に神の救いが与えられたのです。主イエス・キリストは、自分の罪を悔い改め、神様に立ち返る者を憐れんでくださり、救いの中に入れてくださいます。このようにして主イエスとともに十字架につけられた犯罪人は改心したことによって神の祝福が与えられ、救いの中に入れられました。  わたしたちは神の前では誰一人として罪のない正しい者ではありえません。わたしたちは皆誰でも罪の汚れがまとわりついています。わたしたちはどんなに頑張っても過去に犯してしまった数々の罪を自分の力で償うことができません。そのようなわたしたちに代わって、わたしたちの罪を償ってくださるために少しの罪もない御方が、わたしたちの罪のすべてを背負って十字架にかかって死んでくださいました。この受難節のとき、そのことを深く心に刻んで、深く感謝して、悔い砕かれた心をもって、ひたすら神の憐れみをこいねがい、罪の赦しを祈る者たちとされるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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