2021.3.14.主日礼拝
    詩編 第22篇1〜32節、ルカによる福音書 第23章32〜38節

「十字架につけられた王」

 十字架の死刑の判決を受けた主イエスが処刑の場へと引かれていった場面を先週の礼拝において読みました。本日の33節によりますと、その場所は「されこうべ」と呼ばれている所でした。本日の箇所には、この時、主イエスの他に二人の犯罪人が一緒に十字架につけられたことが語られています。33節によれば、主イエスの十字架を真ん中に、一人は右に、一人は左に、その二人の十字架が並んだのです。なぜ主イエスの十字架が真ん中だったのか、それはおそらく、38節に語られている、主イエスの頭の上に掲げられた札のゆえだったのでしょう。その札には、「これはユダヤ人の王」と書かれていました。この札は主イエスに死刑の判決を下した総督ピラトが掲げさせたものです。

 36節には、十字架刑を執行している兵士たちが「酸いぶどう酒」を主イエスに突きつけたとあります。このぶどう酒は本来は十字架の死刑を受ける者の苦しみを和らげてやるための麻酔薬として用意されていたもののようですが、ここでは兵士たちも民衆や議員たちと一緒に主イエスを侮辱するためにぶどう酒を突きつけたと語られています。彼らは「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ったのです。この兵士たちの嘲りの言葉は、主イエスの頭の上に掲げられていた札から来ています。ピラトの命令で「これはユダヤ人の王」という札を掲げた兵士たちが、それをネタに主イエスを嘲ったのです。

 このような嘲り、ののしりを受けたことこそ、主イエスにとって、十字架に手足を釘打たれる肉体の苦痛に勝る苦しみだったと思います。主イエスは必死にそれらの苦しみに耐えておられました。その忍耐の中で主イエスがお語りになった一言が34節です。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」。十字架につけられた肉体的苦しみの中で、また徹底的に侮辱され、嘲られ、ののしられる中で、彼ら、つまり自分を十字架につけた人々への赦しを、主イエスは父なる神様に祈ったのです。その「彼ら」の中には、主を嘲り、ののしっている人々も含まれていると言えるでしょう。主イエスを十字架につけて殺し、抹殺しようとしている、そこにおいて、自分を救う力のないお前は救い主でも王でもないとののしっている人々、それら全ての人々の罪の赦しを、主イエスは祈り願われたのです。その祈りの根拠、前提として、彼らは「自分が何をしているのか知らないのです」と言っておられます。主イエスを十字架につけた人々も、嘲りののしっている人々も、自分が何をしているのか、そしていま何が起っているのかを知らないのです。だから彼らを赦してくださいと祈っておられるのです。

 彼らは何を知らなかったのでしょうか。それは、神様に背き逆らい、神を神として敬わず、従わず、自分が主人となって、自分の思いによって歩もうとしている、その私たちの罪を、神の独り子イエス・キリストが全て背負って、引き受けて、十字架にかかってくださったということです。十字架の死刑を受けなければならない罪人は本当は私たちであるのに、その私たちの身代わりとなって主イエスが十字架につけられたのです。

 私たちは自分の罪の中で、また人々の罪の中で、様々な苦しみ悲しみに陥ります。自分が人を傷つけ、人間関係を破壊してしまう、とりかえしのつかない罪を犯してしまうことがあります。また人のそういう罪のために苦しみ、傷つき、赦せないという思い、憎しみを抱き、そこからどうしても抜け出せないということもあります。神様をも、人をも、愛そう、愛したい、愛さなければと思いながら、それができないという現実に絶望を覚えます。また私たちのこの世の歩みは、様々な出来事に翻弄され、思わぬ苦しみを背負うことがあります。それらの出来事の中で、いったい神様の救いなどどこにあるのか、神が私たちを愛しておられ、恵みを与え、守り導いてくださると言うけれども、そんな愛や恵みや守りはどこにも見えないではないか、という非難の声も聞こえてきます。主イエスの十字架は、まさにそのような、救いも助けも恵みも愛も見当たらないように見える現実のただ中に、神様の独り子が身を置き、その苦しみ悲しみ絶望を自分の身に背負い、引き受けてくださったという出来事です。主イエスがこのように十字架にかかり、自分を救うことができずに殺されてしまう、その苦しみと死を徹底的に味わってくださったからこそ、私たちがそのような救いの見えない苦しみの中で絶望を覚える時にも、そこに、十字架につけられた主イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださることが実現しているのです。彼らが知らなかったのはこのことでした。

 人を救うためには救うことのできる力が必要だ。自分が滅びてしまうようでは、人を救うことなどできない。王であるというからには、人を従わせるだけの権力が必要だ。捕えられ、裁かれ、死刑に処せられてしまうようでは王ではあり得ない。それが私たちの常識です。しかし主イエス・キリストの十字架は、その常識をくつがえす出来事です。捕えられ、裁かれ、死刑の判決を受け、鞭打たれ、十字架に釘づけられ、人々の侮辱、嘲り、ののしりを受けつつ死んだ、この主イエスこそ、神様の独り子、まことの神であられ、私たちのまことの救い主、私たちの罪を赦し、新しく生かしてくださるまことの王であられるのです。このことを知らずに、主イエスを十字架につけ、嘲っている人々のための赦しを、主イエスは父なる神様に祈ってくださいました。それは私たちのための祈りでもあります。私たちは、この主イエスの十字架の上での執り成しの祈りによって、赦され、新しく歩み出すことができるのです。

 私たちは、十字架の死によって私たちの罪を全て赦し、苦しみや悲しみを共に担ってくださる神様の独り子イエス・キリストをまことの王としていただき、その王の下で、その恵みを喜び、感謝しつつ、キリストの父である神様を礼拝し、ほめたたえつつ歩んでいくことができるように祈ってまいりましょう。

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