2021.3.7.主日礼拝
    イザヤ書 第35章1〜10節、ルカによる福音書 第23章26〜31節

「キリストの後ろに」

 きょうの聖書箇所の26節にありますように、主イエス・キリストは、ローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトによって死刑の判決を受けて処刑場に引かれて行きました。当時は処刑される者は自分がかけられる重い木の十字架を自分で背負って処刑場まで歩いていかなければなりませんでした。主イエスは処刑場までの道のりを重い十字架を背負って歩かされていたのですが、26節にありますように人々は「田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」のです。なぜなら、マルコによる福音書にもありますように、主イエスは死刑の判決を受けてからむち打たれたり、葦の棒で頭を何度も叩かれたりして、肉体的に激しく痛めつけられ、重い十字架を運ぶ力などもはや残っていなかったのです。キレネというのはクレタ島の南、今のリビアの地中海沿いにあった地域です。シモンはそこからたまたまやって来て主イエスの行列に出くわして、見物していたのでしょう。突然(おそらく)ローマ兵に列から引っ張り出されて、主イエスの代わりに重い十字架を背負わされたのです。そして、嘆き悲しむ婦人たちと、主イエスを「十字架に付けろ」と叫んだ民衆が主イエスの後についていきました。主イエスは婦人たちにほうを振り向いて、エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣けとおっしゃいました。主は「わたしに対する同情の涙は要らない。自分と自分の子供たちのために泣け」とおっしゃったのです。これはどういうことでしょうか。ユダヤ・イスラエルはこの後西暦66年にローマ帝国に対して反乱を起こし、全土で戦争になり、激しい戦いの末に70年主都エルサレムが陥落し、神殿も破壊されてしまいます。そのことを主イエスは問題になさったのです。この滅びは、ユダヤ・イスラエルの民に対する神の裁きでした。これは主イエスを十字架に追いやり、神に背き、神に対して数々の罪を犯した結果、神の怒りによって下された神の裁きの出来事だったのです。主イエスは、婦人たちにおいてイスラエルの民を代表させて、その犯した罪の悔い改めとしての涙を流せとおっしゃったのです。   そもそも罪が行為として起こされたとき、その行為の結果は償われなければなりません。しかし、わたしたちの犯した罪はあまりにも重すぎるので、その罪をわたしたちは自分でどのようにしても償うことができないのです。そのために天の父なる神様は愛する御子イエス・キリストを十字架にかけることによって、わたしたちのすべての罪の償いを御子イエス・キリストにさせ、わたしたちの罪を赦してくださったのです。それはわたしたちがいまも、そしてこれからも犯してしまう罪も同様に赦されるとうことも意味します。そのために、神様の側で大きな犠牲が払われたのです。逆に言えば、神様の側でそれほど大きな犠牲を払わなければならないほどにわたしたちの罪は深く大きいということなのです。またそれほどに天の父なる神様はわたしたちのことを愛していてくださっているのです。主イエスの十字架の苦しみがわたしたちの罪の結果だということをわたしたちは深く心にとめて、悔い改めの涙を流さなければならないのです。

 ところで先ほど、主イエスに代わって突然十字架を背負わされたキレネ人シモンという人のことを御言葉日聴きました。伝説によればこのシモンという人は後にキリスト者となったと伝えられています。十字架を背負わされる前までは彼は主イエスのことを知らなかったのです。十字架を背負わされることによって、彼は主イエスのことを知るようになり、やがて主を信じて生きる者にされました。そのことは主を信じて生きるわたしたちも同じです。かつてわたしたちも主イエスのことを知らない者でしたが、導かれて主を信じる者とされました。ルカによる福音書9章23節には、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」とあります。キリストを信じる者は誰でも自分の十字架を背負って主の御後に従うことを主が求めておられます。その十字架とは「自分の十字架」です。わたしたちは主の十字架を背負うことは赦されてはおりませんし、わたしたちには主の十字架は重すぎてとても背負うことなどできません。背負うのは「自分の十字架」でよいのです。それでは自分の十字架とはなんでしょうか。それはわたしたちが日々生きる上で味わう苦しみや悩みです。それはその多くがわたしたちの罪がその原因となるものです。例えば隣人との間に起こる悩みや苦しみです。それらをわたしたちは日々背負うことになりますが、それらはわたしたちが自分だけの力で背負うことではありません。ひたすら難行苦行することではありません。わたしたちの経験する悩み苦しみのなかで、主が、罪赦されたわたしたちと共にいてくださって、共に悩み苦しんでくださり、わたしたちが抱える諸問題を解決へと導いてくださるのです。そしてわたしたちが自分の十字架を背負って主の後に従って行く道は、主の復活の命、永遠の命につながる道なのです。わたしたちは主を信じて主の御後にどこまでも従い行く者とされるようにいつも祈ってまいりましょう。

 終わりにマタイによる福音書11章28節から30節の御言葉に聴きましょう。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

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