2021.2.28.主日礼拝
    イザヤ書 第53章1〜12節、ルカによる福音書 第23章13〜25節

「イエスとバラバ」

きょうの聖書の箇所は、まったく罪のない人が死刑の判決を受けるというお話です。さらにそれに加えて、本来は死刑にされるはずであった人の身代わりに死刑の判決を受けたというお話です。主イエスは祭司長たちによって死刑に値する罪を犯したと、訴えられました。祭司長たちは以前から主イエスを亡き者にしようとしていました。当時犯罪人を死刑にする権限はユダヤ人にはなくユダヤを支配していたローマ帝国にありました。それで彼らは当時ユダヤを統治していたローマ帝国の総督ピラトの許に主イエスを連れてきて、ピラトから主イエスを死刑にする判決をもらおうとしたのです。しかし、祭司長たちが強く訴えてもピラトは最初、死刑の判決をなかなかくだそうとはしませんでした。それはそうでしょう。いくら取り調べをしても死刑にするような罪は主イエスには見いだされなかったからです。ピラトが祭司長たちと民衆にそのことを訴えても彼らは承諾せず、主イエスを「殺せ、十字架につけろ」と叫びます。

 そしてここにバラバという人が登場します。19節に「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」とあります。マルコによる福音書にもありますように、祭りのときに民衆が望む一人の囚人を釈放することになっていたことから、民衆はバラバを釈放するようにピラトに求めたのです。ピラトは最終的に祭司長たちに主イエスのことを委ねました。主イエスは何の罪もなかったのに、重罪人の身代わりになって死刑の判決を受けたのです。

 主イエスが無実の罪で死刑の判決を受けたこと、そして、その判決は本来死刑とされるべき人の身代わりであったということの意味をわたしたちは重く受け止めなければならないと思います。どうして主イエスは死刑の判決を受けなければならなかったのでしょうか。それはそのことが予め神がご計画になっていたことだからです。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。

 きょう一緒に読みます旧約聖書イザヤ書53章は、別名「苦難のしもべ」と呼ばれています。この章はイスラエルの民を救うメシア救い主のことを預言している箇所と言われています。

 伝統的にキリスト教会において、ここに出てくる「彼」とは、イエス・キリストのことを指していると解釈されてきました。わたしたちに代わって罪の罰を受けてくださる御方として旧約聖書でイエス・キリストが予め預言されていたのです。イエス・キリストが無実の罪で死刑にされるということが旧約聖書で預言されていたのです。

 わたしたちは生きているなかで多くの罪を犯します。ときには知らずに人を傷つけてしまったということもあるでしょう。わたしたちはどんなに気をつけても罪を犯さざるを得ない存在なのです。ある人を傷つけてしまって、その人に謝罪して赦してもらえればよいのですが、どうしても赦してもらえないとか、赦してもらおうにももうその人がこの世にいないということもあります。わたしたちは簡単に安易に「罪を償うことができる」などということは言ってはならないと思うのです。わたしたちはわたしたちの力で自分の罪のすべてを償うことはできないのです。そのようなわたしたちのために天の父なる神様は、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられました。わたしたちの多くの数え切れないほどの罪を赦してくださるためにわたしたちに代わってイエス・キリストは無実の罪を背負って死刑の判決を受け、十字架の上で想像を絶する苦しみの中で死なれたのです。

 バラバは死刑になるほどの重い罪を犯したにもかかわらず、主イエスが身代わりになってくださったことにより、無罪放免となりました。ある意味このバラバはわたしたちのことなのではないでしょうか。確かにわたしたちは実際にはバラバのように殺人の罪を犯したわけでも暴動を起こしたわけでもありません。しかし、わたしたちは自己中心的に生き、隣人を傷つけ、神様に逆らい続けています。それは重い罪だと言わなければなりません。十字架にかけられるべきは、主イエスではなくわたしたちなのではないでしょうか。

 主イエスの犠牲によって、身代わりになってくださったことによって、わたしたちの罪が赦されたのです。わたしたちは過去に多くの罪を犯してきたはずであり、そのことにわたしたちは無頓着ではいられません。良心の刃はときにわたしたちを切り刻むようなことがあり、そのたびにわたしたちは苦しみを覚えます。悪魔サタンもそのようにしてわたしたちが犯した罪を責め立てますが、十字架の上で流された血によってわたしたちの罪の数々が清められ、なかったことにされるのです。そして、今と将来においてもわたしたちはどんなにがんばってても注意しても、罪を犯し続けることでしょうけれども、その度ごとにわたしたちは自分が犯した罪を悔い改めていくときに、天の父なる神様はわたしたちを憐れんでわたしたちの罪を赦してくださるのです。

 天の父なる神様の恵みによってわたしたちの罪が赦されているということは、言い換えれば、わたしたちは自分自身が好きになれず、受け入れられないと思えるときでもいまの自分のままで神様が受け入れてくださっているということを意味するのです。それが神の愛です。本来わたしたちは罪深い者たちであり、神の愛を受けるにふさわしくない者たちでありますが、天の父なる神様がそのようなわたしたちを愛し、受け入れてくださっているということは間違いのないことなのです。そのために神様はそのために愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられたのです。

 わたしたちはいま受難節のときを過ごしておりますが、受難節とは、主イエス・キリストの十字架の死までの深い苦しみがわたしたちの罪の赦しのためであったことを深く覚え、感謝し、わたしたちの罪を悔い改め、静かな祈りの時を過ごす期間です。この受難節の意味を深くかみしめて御旨に適って過ごすことができますように祈り求めてまいりましょう。

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