2021.2.21.主日礼拝
    詩編 第62篇1〜13節、ルカによる福音書 第23章1〜12節

「沈黙の意味」

 きょうからルカによる福音書の23章に入ります。いよいよ、主イエスが十字架につけられて殺される、そのことを語っている章です。先週、礼拝で読んだ22章の最後のところには、ユダヤ人たちの最高法院において、主イエスが自らを神とするという冒涜の言葉を語ったと判断され、有罪が宣言されたことが語られていました。23章は「そこで」と始まります。最高法院における有罪の判決が下った、そこで、それを受けて次の行動が起されたのです。それが「全会衆が立り上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」ということです。ピラトとは誰でしょうか。彼は、ユダヤの総督として、ローマ皇帝から派遣されていた人です。当時ユダヤはローマ帝国に支配され、植民地でした。最高法院の人々は、このピラトのもとに主イエスを連行したのです。そして2節にあるように、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と言って主イエスを訴えたのです。

 つまり、イエスはローマに税金を納めることを禁じ、自分が王となろうとすることによってローマの支配を否定している、そのように人心を惑わしている者だ、と訴えたのです。この訴えを受けたピラトは、主イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と問いかけました。イエスが自分は王だと名乗るとしたら、それは総督としては見過ごすことができないわけです。主イエスはこのピラトの問いに対して、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。「お前がユダヤ人の王なのか」と問われて「あなたが言っている」とだけ答える、それは否定でも肯定でもない、要するに答えになっていないのです。主イエスはピラトの問いに対しては答えておられないのです。

 しかし、ピラトはこれを聞くと、主イエスを連行してきた祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。ピラトは、ユダヤ人の指導者たちが主イエスを訴えてきたのが、ローマ帝国によるユダヤ支配の安定のためなどではないことが分かっているのです。また彼らの信仰の問題に総督が首を突っ込むのは利口でないとも思っているのです。だから、主イエスが「自分はユダヤ人の王である」とはっきり言わない限り問題にするつもりはないのです。しかしユダヤ人たちはあきらめません。「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張ったのです。ピラトはこの「ガリラヤから始めて」という言葉に食い付きます。イエスがガリラヤの出身なら、ガリラヤの領主ヘロデの支配下にある者だから、ヘロデに判断させよう、ということで、ちょうどエルサレムに滞在していたヘロデのもとに主イエスを送ったのです。ヘロデは主イエスにいろいろ尋問いたしましたが、しかしそれに対して、また祭司長や律法学者たちがヘロデの前でも激しく訴えたにもかかわらず、主イエスは何もお答えになりませんでした。

 わたしたちがここで見つめるべき最も大切なことは、主イエスが、ご自分を裁いているピラトの前でもヘロデの前でも、沈黙を守っておられる、ということです。ピラトの問いに対しては、「それは、あなたが言っていることです」という一言を語るのみでしたし、ヘロデの前ではもはや何もお答えにならず、全くの沈黙を貫かれたのです。

 沈黙する、ということは聖書において大事な、また積極的な意味を持っています。そのことを語っている代表的な箇所の一つが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編62篇です。ここで沈黙することは、ただ神に向かい、神による救いをこそ求め、そこに希望を置くことを意味しているのです。

   聖書において沈黙するとは、ただ語るのを止めて黙ることではありません。あるいは自分の内面を見つめ、いわゆる内省をすることでもありません。沈黙するとは、人間との関係、関わりから目を離して神様に向かうことです。人間の言葉を語り、聞くことをやめて神様の御言葉に耳を傾けることです。そこでこそ「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔」(詩編62篇3節)ということが示され、「わたしは決して動揺しない」(同3節)という力強い歩みが与えられるのです。

 この詩人の思いは、ピラトやヘロデの前で沈黙しておられた主イエスの思いでもあったのではないでしょうか。主イエスは沈黙して、ただ父なる神様のみを見つめつつ、神の独り子であるご自分を裁き、罪があるとかないとか、信じられるとか疑わしいとか言っている人間の空しい傲慢な言葉に耐えておられたのです。そしてただ我慢しておられただけではなく、それらの人間の罪をご自分の身に背負って、十字架の死への道を歩んでおられたのです。主イエスが罪のない方でありながら、人間の裁きを受け、その中で沈黙してただ神に向かい、神にのみ望みを置いて十字架の死へと歩み通してくださったおかげで、私たちは罪を赦され、新しくされて、空しい偽りの言葉ではなく、互いに愛し合う新しい言葉を語っていくことができるようになったのです。

 しかしそのためには、私たちも主イエスに倣って、そしてこの詩人に倣って、沈黙してただ神に向かわなければなりません。人間の言葉、自分の言葉を語るのをやめて黙らなければなりません。それは先ほども申しましたように、黙って自分の内面を見つめるということではありません。私たちの内面に渦巻いているのも、やはり人間の言葉です。口先で祝福し、腹の底で呪うような欺きの言葉(同5節)が私たちの内面をも支配しているのです。私たちが見つめるべきものは自分の内面ではなくて、主イエスの父なる神様です。沈黙してただ神に向かい、神様の御言葉に耳を傾け、それを聴くことが大切なのです。私たちも主イエスの父である神様の御前に沈黙して、その御言葉をいつも聴くことを追い求めていきたいと思うのです。

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