2021.2.7.主日礼拝
    イザヤ書 第43章1〜4節、ルカによる福音書 第22章54〜62節

「神のまなざし」

 きょうの聖書箇所は、ペトロが主イエスを裏切るという場面です。主はオリーブ山で祈っておられたとき、祭司長たちに捕えられました。弟子のシモン、ペトロは、主が祭司長たちに捕らえられる前に

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」

と語っていました。しかし、そのペトロに対して主は「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」とおっしゃいました。主イエスはすべてのことをご存知だったのです。ペトロが裏切るであろうこともご存知だったのです。

 ペトロは、主が引っ張って行かれた大祭司の屋敷の中庭で、一緒に座っていた人に、「あなたはイエスと一緒にいただろう」と言われました。彼は即座にそのことを否定してしまったのです。それから続けて二度も主イエスを否定してしまいました。彼はそれまでまさか自分が主イエスのことを否定する、裏切ってしまうとは予想もしていなかったでしょう。しかし、ペトロの「死んでも主について行きます」との決意はもろくも簡単に崩れ去ってしまったのです。彼はそのことにとても大きな衝撃を受けました。そしてそのペトロを主イエスは「振り向いて見つめられ」たのです。ここにある「見つめられて」という言葉は直訳しますと「じっと見る」という言葉です。主イエスはどんな思いでペトロを見つめられたのでしょうか。そのことを聖書はなにも記しておりませんが、主はペトロを慈しみ憐れみ、赦されたのだと思います。その気持ちを込めて主はペトロをじっと見つめられたのです。ペトロは主イエスのその視線を感じ、その意味を感じ取ったのだと思います。ペトロは、主イエスがすでに予告しておられたとおり「今日鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という主イエスが言われたことを思い出して、外に出て、激しく泣いたのです。わたしたちはこのことから人間の決意のもろさ、人間の弱さということそして主の愛の深さを思わずにいられません。人間の意志力というものは誠に弱いものです。事前にいくらしっかりと決意したつもりでもいざとなったら、まったくだめだったということはよくあることです。このように自分自身の力に依り頼んでも結局は自分を救うことはできないのです。信仰ということもそうです。堅く信仰を保って行こう。持ち続けて行こうといくら強く決心しても何か困難なことにぶつかると途端にわたしたちの信仰は揺らいでしまいます。特に厳しい迫害の下に置かれた場合などにはそのようなことが起こりえます。  ところで、わたしたちは戦争中や江戸時代のように信仰を言い表せば殺されるというような厳しい迫害の中にいるわけではありません。それでもキリストを信じている人の割合が1%にも満たないこの国で、自分はキリスト者だということを言い表して生きることは少なからず困難を伴うこともあるでしょう。しかし、そういう場合でもペトロのように「わたしはあの人を知らない」とまではわざわざ言わなくてもよいでしょう。「わたしはキリスト者だ」と公表することはそんなに大きな問題とはなりません。とは言え、わたしたちの生き方において、信仰生活の内面において、「自分はどんなことがあっても主イエスについて行く、たとえ死の危険にさらされても信仰を守り抜くのだ」と決心していたとしても、困難な状況に置かれると、神に背いてしまうということはしばしば起こってしまうのではないでしょうか。そして「神以外のもの、たとえば自分の力やおカネの力に依り頼んで生きようとすること」という誘惑も起こってまいります。しかしそのことは、神への背き、裏切り行為ということにならないでしょうか。それは「神なしで」生きようとすることを意味するものであり、偶像崇拝ということと同じということなのです。神以外のものにより頼もうとすることそのことが、神様への裏切り行為ということではないでしょうか。

 主イエスは、聖書の中で「おカネや財産などの力や、自分の力に頼ろうとすることを止めて、わたしにすべてをゆだねなさい」「空の手でわたしの恵みを受けなさい」とおっしゃっています。そのことを主はなによりもわたしたちにお求めになっています。そのことを主は、マルコによる福音書10章13節から15節にあります「幼子と神の国」の話で弟子たちに教えています。

主イエスはそこで主の祝福を受けようとする子供たちを妨げてはならない。神の国はそのような者たちの者であるとおっしゃいました。それはなぜでしょうか。子供たちがかわいらしいから、純真無垢だからということではなく、子供は大人のように自分の力で生きていくことはできないからです。子供たちは親の助けがなければ、生きていくことはできない存在です。子供は大人からただ施しを受けるだけです。主はこのように、あなたたちは幼子のように自分の力により頼むのではなく、神様に依り頼んで、ただ空の手で神の恵み、神の救いを受ける者になりなさいとおっしゃっています。それが神を信じて生きるということなのです。それが神様のお喜びになることなのです。それがまずわたしたちが神から求められていることです。これに反して、神を離れて生きること、自分の力だけで生きられるとばかりに神の救いの手をはね除けて生きようとすることは、神に背く生き方です。そのことを神は悲しまれます。しかし、そのように神に背き、神から離れてしまった者を神様は放っておかれるのでしょうか。神様はそうはなさいません。ルカによる福音書15章の放蕩息子のたとえにもありますように、父の財産をもらって遠い国でそれを使い果たして、一文無しになってぼろぼろになった息子の帰りをいつまでも待っている父親のように、神様は、神様に背いたわたしたちが悔い改めて、神様のもとに帰って来ることとても喜んでくださる御方なのです。神様はそのようなわたしたちの罪を赦し、わたしたちを暖かく迎えてくださる御方なのです。神様は、神に背き、神から離れて自分勝手な生き方をしてしまうわたしたちの上にいつも慈愛に満ちたまなざしを注いでくださっているのです。わたしたちは、その神様の愛に深く感謝して、神様に向き直って悔い改めていくことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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