2021.1.31.主日礼拝
    イザヤ書 第60章1〜3節、ルカによる福音書 第22章47〜53節

「闇に打ち勝つ光」

 きょうの聖書の冒頭に、「ユダは先頭に立って接吻をしようと近づいた」とあります。接吻とはキスのことですが、ユダは、キスをするという親密さを表す行為でもって主イエスを油断させようとしていたのかもしれません。自分が信頼する弟子に裏切られるというのはどういう気持ちでしょうか。主イエスにとってそれはとても辛いことであったに違いありません。21節以下にありますように、最後の晩餐の席で主はユダの裏切りをすでにご存知でした。このことはすでに天の父なる神様のご計画の内にあったことだったのです。きょうの聖書の箇所において、ユダの手引きがあったので、祭司長たちは、主イエスのもとに来ることができました。この夜に主がどこにいらっしゃるかということは弟子たちしか知らないことでした。ユダの手引きがなければ祭司長たちが夜中に主イエスのところに来ることはできなかったことでしょう。

 弟子たちは、主を捕らえに来た祭司長たちに対して抵抗を試みました。しかし、彼らは手下の右の耳を切り落とすことくらいしかできませんでした。主はその弟子たちに対して「やめなさい。もうそれでよい」と言われ、彼らをいさめ、抵抗を止めるようにお命じになりました。しかし、主は何も言わずに黙って彼らのされるがままに任せようとなさったのではありませんでした。52〜53節をご覧ください。

 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

 主は彼らの振る舞いを非難なさいました。祭司長たちは日頃の主イエスの言動に大きな反感を持ち、主の言動が神を冒涜するものだとみなして主イエスを脅威に思い、なんとか主を殺そうと狙っていました。しかし、民衆が主イエスが神の教えを宣べ伝えておられるときにいつも喜んでそれを聴いておりましたので、祭司長たちは昼の間は手出しができなかったのです。それで彼らは民衆のいない夜に主イエスを捕まえようとしたのです。

 主イエスを捕まえに来た群衆はどれほどの規模だったのでしょうか。それはこのルカによる福音書の箇所には詳しくは記されていません。マタイでは「大勢の群衆」とされています。ヨハネでは「一体の兵士」と「祭司長たちの下役たち」とあります。主イエスおひとりを捕まえるのにこれはずいぶんと大袈裟なことではないでしょうか。弱い人間ほど武器や人数に頼ろうとするのです。威嚇に頼ろうとします。それは弱さの表れです。サタンはわたしたち人間の弱さにつけこもうとします。人間は、たいてい虚勢をはって隣人を威嚇し、自分の願望を実現させようとします。自分を実際よりも大きく見せようとします。そして実際に人を傷つけることも起こってしまいます。

 53節にある「闇が力を振るっている」とは、サタンが力を振るっているという意味です。わたしたちが生きるいまのこの世界も「闇が力を振るっている」ように見えます。いま世界中では、新型コロナウイルスの感染拡大が続いていますし、目を覆うばかりの悲惨な出来事が連日ニュースで報道されています。こんな中でどこに神の救いがあるのだろうかと感じる人も多いことでしょう。

 31節に「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」とありますが、神様が、サタンが弟子たちを悪の誘惑に陥らせようとすることを許されました。旧約聖書のヨブ記には、神の前で正しい人ヨブがサタンによって筆舌に尽くしがたい苦しみを味わわされることが記されてありますが、そのときも神はサタンの行いを許されたのです。なぜこの世に悪があるのか、なぜ闇の力が働いているのか、神がおられるならなぜそのようなことをお許しになっているのかということは、古代から問題にされてきました。この問いの答えはわたしたちには大きな謎です。それはわたしたちには隠されています。多くの学者がこのことを考えてきていますが、はっきりしたことはわかりません。しかしその答えはいつか必ず神様によって明らかにされるときが来るでしょう。いずれにしろわたしたちが見つめるべきは、闇ではなく光のほうなのではないでしょうか。

 ここでヨハネによる福音書1章1〜9節をご覧ください。

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

主イエス・キリストは、すべてを照らす光としてこの世に来られました。5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とありますが、新改訳聖書では「闇は光に打ち勝たなかった」と訳されています。たとえこの世が今は闇の力に支配されているように見えても、光であられる 主イエス・キリストは、その闇の中で輝いておられるのです。そして、闇の力、サタンの力に対して光であられる主イエスは打ち勝たれたのです。それはどうしてわかるのでしょうか。それは主イエス・キリストが十字架にかけられ、復活されることによって死と闇の力に勝利されたからです。その出来事によってわたしたちの罪が赦され、主イエスがわたしたちの救いの光となってくださったのです。わたしたちはたとえ闇の中にいるように思えるときにも、光でいます主を見つめて希望をもって歩むことができのです。

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