2021.1.24.主日礼拝
   詩編 第127篇1〜2節、ルカによる福音書 第22章39〜46節

「起きて祈っていなさい」

主イエスはきょうのところで弟子たちを連れてオリーブ山に行かれました。そこでは主イエスがいつも祈っておられる場所でした。主は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」とおっしゃいました。「誘惑」とは「試練」とも訳されている言葉です。 31節で、サタンが弟子たちを「ふるいにかける」ことを神に願って聞き入れられたとありました。この言葉はそれと同じ意味でしょう。悪魔サタンはいつもわたしたちの信仰を失わせようとねらっています。そのようなサタンの企み、試みに負けないようにしなさいと主は弟子たちにお命じになったのです。そして主は天の父なる神様に祈りをお献げになりました(42〜44節)。

 この主イエスの祈りは大きな苦しみの中でなされました。祈っている間「汗が血の滴るように地面に落ちた」というほどの苦しみです。主イエス・キリストは神と等しい御方です。主は人間と同じような心と肉体をお持ちになっておられました。主は天のどこかで、人間を見下して人間が苦しんでいるのを高みから見物しているような御方ではありません。人間が感じるのと同じように苦しみ、悲しんでくださる御方です。

 それではなぜ主はこんなにも深く苦しまれたのでしょうか。主イエスは、このあとまもなく祭司長や長老たちに捕らえられ、裁判を受けさせられ、十字架にかけられて殺されてしまいます。十字架への道はわたしたち人間には到底耐えられる苦しみではありません。十字架にかけられるのは本当に大きな苦しみです。その苦しみを前にしたからこそ主は深く苦しまれたのです。

 42節にあります「杯」とは苦い杯、主がお飲みになる苦い杯、十字架の大きな苦難のことです。これはその苦難が降りかからないようにしてくださいとの主の必死の祈りです。しかし、そのあと主イエスは「わたしの願いではなく、御心のままになさってください」と祈られました。主はわたしたちが本来飲むべきこの苦い杯をわたしたちに代わって飲んでくださることを決意してくださったのです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」この祈りはまさに「祈りの戦い」ともいえるものでした。主はこの祈りの戦いに勝利できるように必死に天の父なる神様にお祈りになったのです。自分の願いを中心にするのではなく神の願い、神の御心の実現が中心となるように祈られたのです。

 そもそも「祈り」とはなんでしょうか。わたしたちは、自分や家族の健康、その他幸福を祈ります。日本人が初詣で神社で祈るのも「家内安全」「商売繁盛」「志望校への合格」などといういわゆる「御利益」を願う祈りです。一方わたしたちの祈り、聖書の神への祈りはどうでしょうか。わたしたちも自分のための祈りをしてもいいのですが、キリスト者の祈りとはそれだけにとどまりません。「主の祈り」のなかに「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」とあります。神様の御心が天で成就するように、地上でも成し遂げられますように」という祈りです。神様の御心がこの地上でも成し遂げられるように完成するようにとの祈りです。それはいわゆる「御利益信仰」とは異なります。神の国が完成するようにとの祈りです。神の国が完成するようにわたしたちも祈りそのために働くのです。それは神様のご栄光がこの地上であらわされますようにという願いでもあります。わたしたちの祈りにおいて自分の利益、メリットになるようなことが優先されるのではなく、神様の御心が実現することが最優先されるのです。わたしたちはそのために神様と隣人に仕えるのです。キリスト者の祈りは、自分中心ではなく、神中心です。わたしたちは、わたしたちの願いを神様の願いに合わせることができるように祈るのです。

 わたしたちに苦しいことや辛いことが起こったとき、わたしたちはその苦しみの事柄を取り去ってくださるように神様にお願いします。しかし、いつもわたしたちが期待したようにはなりません。むしろ苦しみが続くようなことがしばしばです。そういうときわたしたちはがっかりしてしまい、信仰を失ってしまうということも起こり得るます。そこまで行かなくとも神様への信仰が揺らいでしまうことも起こってしまいます。「なぜ神様はわたしにこのような試練、苦しみをお与えになるのか」「神はわたしを愛しておられないのではないか」と考え、神様の愛を疑ってしまうということも起こります。そういうことがあっても主イエスは「祈れ」とおっしゃいます。32節で主は「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った」とおっしゃっています。主がわたしたちの信仰がなくならないように祈ってくださっています。わたしたちもそのことに信頼して、目を覚まして、起きて祈っていかなければならないのです。たとえ祈れないようなときにも、祈りも言葉も出ず、うめきにしかならないようなときにも天の父なる神様はわたしたちの祈りを聞いていてくださっています。

 わたしたちはいまの自分の現状が苦しいときになんとかそこから抜け出せるように祈り願います。病気があればその癒やしを祈ります。いくら祈っても自分が望むようには、ならないかもしれません。しかし、神様はわたしたちを愛しておられ、わたしたちに何が必要なのかをご存知です。わたしたちがもっともよいと思うことを神様はしてくださいます。主イエスは、苦しみの苦い杯を取りのけてくださいと願いましたが、最終的に御心のままに行ってくださいと祈られました。

 32節にありますように、主イエスは「わたしたちの信仰がなくならないように祈って」くださっています。苦難を受けてもわたしたちが神の愛を疑い、自暴自棄になって信仰を失わないように祈り求めてまいりましょう。主は必ずわたしたちの信仰がなくならないように助けてくださいます。そしてわたしたちにとって必要なことは、主が共にいてくださることを信じ、神様を信頼して神様にすべてをお委ねして行くことなのです。

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