2021.1.17.主日礼拝
   イザヤ書 第53章1〜12節、ルカによる福音書 第22章35〜38節

「それでよい」

主イエス・キリストは、35節で弟子たちに「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わした時、何か不足したものがあったか」と問われました。財布も袋も履物も持たずにとは、自分の持っているもの、自分の貯え、自分の力に一切依り頼まずに、ということです。主イエスによって伝道のために派遣された弟子たちは、自分の力によってではなく、ただ主イエスの御言葉に信頼して、父なる神様が御業を行ってくだることのみを頼りに、出かけて行ったのです。それは、自分の信念や決意や覚悟によるのではない歩みです。遣わしてくださった主イエスの御心のみに支えられて、彼らは伝道したのです。そしてそこで不足することは何もなかった、いつも十分に支えられ、養われ、守られてきたのです。主イエスは弟子たちにそのことを思い出させておられるのです。

 しかし、今からいよいよ弟子たちは、サタンのふるいにかけられようとしています(31節)。主イエスが捕えられ、十字架につけられることによって、信仰が試される試練に直面しようとしているのです。その試練を前にしてペトロは、自分の信念や決意や覚悟に従って生きようとしています(33節)。主イエスは、ここであなたがたの信念や決意や覚悟が信仰なのではないし、それによって信仰が支えられるのでもないと語っておられるのです。あなたがたの信仰は、つまり神様との関係は、あなたがたの決意や努力によってではなくて、私の祈りによって、そしてそれに応えてくださる父なる神様の御業によって与えられ、支えられ、維持されるのだ。と語っておられるのです。

 そうであるならば、「しかし今は、剣を手に入れなさい」という御言葉の意味はどういうことになるのでしょうか。その「今」というのは、弟子たちがサタンのふるいにかけられ、試練にあおうとしている今です。信仰が試されようとしている今です。またそれは同時に、その試練を前にしてペトロが「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(33節)と宣言して、自分の信念、決意、覚悟を貫こうとしている今でもあります。主イエスは、弟子たちが試練を目前にして、今どのような思いで歩もうとしているのかを見つめつつこの御言葉を語っておられるのです。つまり、自分の力で、信念、決意、覚悟を貫いて歩もうとするならば、そこで必要になってくるもの、それなしには不安であるもの、どうしても備えたくなるもの、それが剣なのです。つまり主イエスがここで「剣を用意しなさい」とおっしゃったのは、ペトロの、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」という言葉に対する応答なのではないでしょうか。あなたがたは、自分の力で信念、決意、覚悟を貫いて生きようとしている。しかしそのような歩みには必ず剣が必要になる、剣によって自分の身を守ろうとするようになる、そして攻撃こそが最大の防御ですから、身を守ろうとしているうちに必ず、その剣で人を攻撃するようになっていく、そういう歩みへとあなたがたは向かおうとしているのだ、ということを主イエスは弟子たちに教えておられます。  そしてその歩みは、私があなたがたを以前伝道に遣わした時にあなたがたが体験した歩みとはいかに違っていることか。あの時、あなたがたは剣どころか、財布も袋も靴も持たずに歩んだ。しかし何も不足することはなく、平安に歩むことができた。ところが今、自分の力で信念と決意を貫こうとしているあなたがたは、不安に捉えられており、剣を必要としている。その違いに気づかせようとしておられるのです。

 弟子たちのもとには剣が二振りあり、主イエスは「それでよい」と言われました。この後、祭司長たちに率いられた群衆が、剣や棒を持って主イエスを捕えに来ます。武装した群衆の前で、この二振りの剣は全く無力です。身を守る役には立ちません。主イエスが、その二振りの剣を見て「それでよい」とおっしゃったのは、「もうそれで十分だろう。いいかげんにやめにしろ」という意味もあったでしょうが、同時にそこには、「あなたがたが自分の力で振り回すことができるのはせいぜいその二振りの剣ぐらいのものだ」という意味も込められているのです。彼らが持っている二振りの剣は、彼らをふるいにかけ、試練を与えるサタンの力の前では全く無力なものであって、それによって信念を貫くことなどできはしないのです。自分の力で信念と覚悟に生きようとする者は、武装した群衆の前で二振りの剣を振り回すぐらいのことしかできず、結局無惨に敗北するしかないのです。

 わたしたちが、主イエスの十字架によって実現し、与えられる罪の赦しの恵みによって生きるのでなく、自分の力で、信念、決意、覚悟を貫いて歩もうとする時、私たちは、剣を振り回すようになります。実際弟子たちが持っていた剣はこの後、主イエスの逮捕の場面で抜かれ、大祭司の手下の右の耳を切り落とすことになります。しかし主イエスは「やめなさい。もうそれでよい」と言って、その耳に触れていやされた、と51節に語られています。自分の信念、決意、覚悟を貫こうとする私たちは、そのように人を攻撃し、傷つけてしまうのです。しかしそれによって身を守ることも、信念を貫き通すこともできず、結局敗北し、挫折していくのです。しかしそういう私たちの罪と弱さを主イエスは全てご存知であり、それを担って下さり、十字架の上でご自分の命を犠牲にすることによって私たちを赦して下さり、また私たちが人に負わせてしまう傷を癒して下さるのです。この主イエスの救いの恵みをいただいて、この恵みにこそ依り頼んで生きることが信仰です。そこには、剣はおろか、財布も袋も履物も何も持たなくても不足することが全くない、恐れや不安から解放された、真実に平安な歩みが与えられていくのです。

                                   閉じる