2021.1.10.主日礼拝
   詩編 第139篇1〜24節、ルカによる福音書 第22章31〜34節

「信仰がなくならないように」

 きょうの聖書箇所の初めに、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とあります。「ふるい」というのは、粒の大きさによって必要なものといらないものとを分けるための道具です。小麦をふるいにかけるのは、脱穀において、収穫すべき麦の粒とその他のもの、もみ殻やゴミとを選別し、分けるということでしょう。「ふるいにかける」とはそのように、ごっちゃになっているものを選り分け、必要なものとそうでないものとをはっきりさせることです。合格か不合格かを決めると言うこともできます。サタンがそのようにシモンをふるいにかけようとしているというわけですが、「あなたがたを」と語っておられるわけですから、シモンだけでなく全ての弟子たちもふるいにかけられようとしているのです。つまり、真実に主イエスに従っている本物の弟子か、それとも見せ掛けだけの偽物かが選別されようとしているのです。そのふるい分け、選別は試練によってなされます。主イエスが捕えられ、十字架につけられ、自分の身にも危険が及ぶという試練に直面する時に、弟子たちの信仰は試され、本物か偽物かが明らかになるのです。サタンはそういう試練を弟子たちに与えようとしているのです。

 しかしペトロは、「いやわたしは、サタンにふるいにかけられても、挫折したりはしません。どこまでもあなたに従っていく覚悟です」と言うのです。それが33節です。「するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った」。すなわち、ペトロは、主イエスに従って自分の使命を死に至るまで果す、という決意、使命感を語っているのです。もっと一般化して言えば、信仰者として、主イエスに従って生きるという固い決意を表明したのです。

 しかし、ペトロや弟子たちがこの後無残にも主を捨ててしまったということを知っている私たちは、ペトロは随分威勢のよいことを言っている、と思います。そんなに自分に自信があったのだろうか、と思います。けれどもこのことをそのように、ペトロのこの時の気持ちや、彼の性格によることとして考えてしまってはならないと思うのです。これは、信仰とは何か、という根本的なことに関わる問題です。ペトロはここで、自分の「覚悟、信念、決意」を語っています。覚悟、信念、決意を持って主イエスに従っていくことが信仰だと彼は思っているのです。信仰とは、信仰をもって生きるとはそういうことだと思っている限り、このように言うしかないのではないでしょうか。「私はこういう決心をしています、こういう覚悟です」ということなしに信仰はあり得ない、それがペトロの思いなのです。それは、私たちも皆思っていることではないでしょうか。わたしたちは、神様を信じ、信頼し、イエス・キリストに従っていく、そういう決意、覚悟をしっかり持って歩みたい、そうならなければ、と思っているのではないでしょうか。だからペトロのこの言葉は、特に珍しいものではありません。おそらく私たちの誰もが、このような言葉にこそ信仰を、信仰者としての生き方があると思っており、このように語り、その通りに実行できる者となることを願っているのです。  それゆえに、34節の主イエスのお言葉は、ペトロ一人に向けられたものではなくて、私たち一人一人に対する予告であり宣言なのです。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。ユダヤの暦では日没から一日が始まっていますから、翌朝鶏が鳴く時も「今日」です。今日この日の内に、三度主イエスを知らないと言う。三度というのは、徹底的に、ということです。「三度目の正直」と言います。一度ならず二度ならず三度まで同じことを繰り返すのは、それが本心だということです。ペトロは、サタンによる試練、ふるいの中で、死に至るまで従っていく、という自分の決心、覚悟を徹底的に否定する言動に陥ってしまう、主イエスはそう予告なさったのです。そしてそれは、信仰とは、覚悟、信念、決意をもって生きることだと思っている私たちの行きつく先の予告です。自分の覚悟、決意によって信仰者として生きようとする私たちは、サタンのふるいの中で、その覚悟を自分自身で徹底的に裏切ることになるのです。弟子の筆頭であるペトロは、そういう意味で私たちの先頭に立っているのです。

 サタンは、いつもわたしたちの信仰を失わせようとたくらんでいます。主イエスは、サタンのそのたくらみと戦ってくださっています。サタンは、私たちをふるいにかけることを神に願って聞き入れられました。主イエスはそのサタンに対抗しつつ、同じ神に、しかもご自分の父である方に、私たちの信仰が無くならないように祈ってくださっているのです。主イエスの祈りは、ただ言葉で何かを祈り願うというだけではありませんでした。主イエスは、罪に捕えられてしまっている私たちのために、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んでくださったのです。そのことによって私たちの罪の赦しを実現してくださったのです。主イエスはまさにご自分の命を与えて、私たちのためにとりなし、祈ってくださっているのです。父なる神様は、独り子主イエスの十字架の死による祈りに応えてくださり、主イエスを復活させ、私たちが新しい命に生きる道を開いてくださいました。そして、サタンによる試練に遭う私たちが、その試練によって押しつぶされてしまうのでなく、主イエス・キリストによって与えられた罪の赦しの恵みを信じて新しく生きることができるように支えてくださるのです。そのことに感謝して歩める者となれるように祈ってまいりましょう。

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