2021.1.3.新年礼拝
   詩編 第23篇1〜6節、ルカによる福音書 第22章24〜30節

「だれがいちばん偉いか」

 わたしたちは、礼拝におきまして十字架に付けられる前の晩、主イエスが弟子たちと共に過越の食事をなさった、そのいわゆる「最後の晩餐」の場面を読み進めています。本日ご一緒に読む24節以下には、その晩餐の席で、弟子たちの間に、ある議論が、もっとはっきり言えば言い争いが起こったことが語られています。それは、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論でした。「我々の内で一番偉いのは誰か」「わたしだ」「いやわたしの方が偉いんだ」という言い争いが起こったのです。何だかとても子供じみた話に感じられます。

 26節をご覧ください。「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」とあります。

 この「仕える者になる」ということの内容を明確にするために、27節では「食事の席に着く人と給仕する者」というたとえが用いられています。「食事の席に着く人」の周りには、給仕をする召し使いたちがいます。食事をする者の方が、給仕をする召し使いよりも当然偉いわけです。ちなみに、26節の「仕える者」という言葉と、27節の「給仕する者」とは原文においては全く同じ言葉です。そしてその言葉から後に「執事」という教会の一つの務めを表す言葉が生まれました。執事とは、「仕える者、給仕する者」という意味の言葉なのです。そして大事なことは、主イエスが、「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と語っておられることです。主イエスご自身が、弟子たちの中で、支配し、権力を振るう者のようにではなく、仕える者、給仕する者として歩んでくださっているのです。

 それは具体的にはどのようなことなのでしょうか。そこで大事な意味を持ってくるのが、これは最後の晩餐における話だ、ということです。主イエスと弟子たちはいま食卓に共についているのです。その食事は、「過越の食事」でした。それは普段の食事とは違う、特別な意味のある象徴的な食事です。エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民が、「過越」の出来事によって解放され、自由を得ることができたことを記念してこの食事はなされているのです。過越の出来事とは、エジプト中の全ての初子、最初に生まれた男子を、人も家畜も撃ち殺すという恐ろしい災いが、主なる神様によって行なわれ、それによってついにエジプトからの解放が実現したその夜、イスラエルの民の家では過越の小羊が犠牲として殺され、その血が家の戸口に塗られたことによって、その災いを避けることができた、ということです。主なる神様によるこの救いのみ業によってエジプトからの解放が実現したことを記念して、過越の小羊の肉やその他の定められたものを食べる過越の食事が定められたのです。主イエスは、十字架による死の前の晩に、弟子たちとこの過越の食事の席に着かれたのです。

 主イエスは、最後の晩餐において、具体的に、弟子たちのために食卓を整え、給仕をして下さいました。弟子たちに仕える者となって下さったのです。マタイ、マルコ、ルカの福音書はどれもそのことを語っています。ヨハネによる福音書は、パンと杯が分け与えられたこと、つまりいわゆる聖餐の制定のことは語っていません。しかしヨハネがその代わりに最後の晩餐の場面で語っているのは、主イエスが弟子たちの足を洗って下さったということです。それもまた、主イエスがまさに僕となって弟子たちに仕えて下さったということです。四つの福音書はどれも、最後の晩餐において弟子たちに仕えて下さった主イエスのお姿を語っているのです。それは、まさにそこにこそ、主イエスの十字架の死の意味があるからです。主イエスが十字架にかかって死なれたのは、弟子たちに、そして私たちに仕えて下さるためでした。主イエスは、私たちの罪を全て背負って、その赦しのために十字架の上で死んで下さったのです。私たちのための過越の小羊となって下さったのです。そのようにして主イエスご自身が罪人である私たちに仕えて下さったことによって、私たちは罪を赦され、罪の奴隷状態から解放されるという救いにあずかったのです。

 聖餐のパンと杯は、その救いの恵みを私たちに味わわせて下さるために主イエスが給仕して下さる食事です。また、主イエスが弟子たちの足を洗って下さったことも、主イエスの十字架の死によって罪の赦し、清めが与えられることを表しています。十字架の死の前夜、弟子たちと共にする最後の食事において、主イエスはこのように、弟子たちに給仕し、その足を洗うことによって、ご自身の十字架の死の意味を示して下さったのです。

 主イエス・キリストの十字架による救いにあずかる群れである教会において、わたしたちは主イエスがそうして下さったように、給仕する者、仕える者でなければなりません。給仕する者、仕える者、という言葉から「執事」という務めが生まれたということを先ほど申しました。執事とは、「仕える者、奉仕者」という意味です。教会にそういう名称の務めが生まれたのは、執事だけが奉仕する者だからではありません。むしろ執事の務めとは、教会に連なる信仰者たち皆が、それぞれに与えられた賜物を用いて主と教会とに仕え、奉仕していくために、教会が奉仕に生きる群れとして整えられていくために、その中心となって奉仕していくことなのです。神様と隣人とに仕えて生きることは私たちの信仰の基本です。ですから全ての信仰者は仕える者として生きるのです。私たちの主イエス・キリストは、十字架にかかって死んでくださることによって私たちに仕えてくださり、私たちを罪の支配から解放し、神様と隣人とに仕えて生きることができるようにしてくださいました。そして聖餐の食卓へと私たちを招き、ご自分の体と血とによる救いを味わうためのパンと杯を私たちに給仕してくださっています。私たちに仕え、給仕してくださっている主イエスの恵みの中で、私たちも、神様と隣人とに仕える者として生きていくのです。

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