2020.12.27.主日礼拝
   詩編 第34篇1〜23節、ルカによる福音書 第22章14〜23節

「最後の晩餐」

 きょうの聖書の箇所において語られていることは、結論的に申し上げますならば、私たちが教会において信仰の兄弟姉妹と共に生きる、その交わりの基礎が示され、語られているということです。

 ここには、主イエスが十字架の死の前夜、木曜日の晩に、弟子たちと共に食事の席に着かれたことが語られています。この食事ののち主イエスと弟子たちはオリーブ山の「いつもの場所」、そこは他の福音書では「ゲツセマネ」と呼ばれていますが、そこへ行って祈り、主イエスはそこで逮捕されます。そして夜が明けるとユダヤ人の最高法院による裁判に続いてローマ帝国の総督ピラトによる裁判が行われ、その日の内に十字架につけられるのです。ですからこの場面は、主イエスの十字架の死の前夜の、いわゆる「最後の晩餐」の場面です。その最後の晩餐は「過越の食事」でした。この過越の食事は、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放して下さった主なる神様の救いの御業を覚え、その神の民として歩むイスラエルの民の信仰の中心をなすものでした。

 15節で主イエスはこう言っておられます。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。それでは、主イエスは弟子たちとこの過越の食事をすることをなぜそんなに強く願われたのでしょうか。主イエスはもちろん、これが弟子たちと一緒に取る最後の食事となることをご存知でした。これが最後の、お別れの食事になるから、ということも言えるかもしれません。しかし主イエスの強い願いはそういうことから来たのではないことが、この食事の席でのお言葉から分かるのです。先ほどの15節に続いて16節では、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と語って

おられます。このことが、弟子たちと共に過越の食事をしたいと切に願っておられたことの理由なのです。過越とは、エジプトの奴隷状態にあった民が、主なる神様の大いなるみ業によって解放され、救われたということです。その過越が成し遂げられるということは、過越のみ業はまだ完成していないということです。それは成し遂げられ、完成されなければならない。それが成し遂げられ、完成されることによって神の国が来るのです。その過越の完成のために、主イエスは今、十字架の死への道を歩もうとしておられるのです。過越の小羊が犠牲となって死ぬことによってイスラエルの民の解放、救いが実現したように、罪に支配されその奴隷状態に陥っている生まれつきの人間がその支配から解放され、罪赦されて新しく生きるために、神様の独り子であられる主イエスが、まことの過越の小羊となって死んで下さるのです。過越のみ業は主イエスの十字架の死によって今やまさに成し遂げられ、完成しようとしています。そのことを教え示すために、主イエスはこの過越の食事を、十字架の死の前の晩に、弟子たちと共にすることを切に願い、その席を整えさせたのです。

 主イエスは、十字架による死の前の晩におけるこの過越の食事において、ご自分の体であるパンと、ご自分の血である杯とからなる食卓を整え、弟子たちを招いてそれにあずからせてくださいました。そして19節の終わりにあるように、「わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃいました。ここではその言葉はパンにおいてのみ語られていますが、明らかにここと繋がりのあるコリントの信徒への手紙一の11章においては、杯においても同じことが語られています。つまり主イエスは弟子たちに、主イエスの体と血とにあずかる主の食卓にこれからもずっとあずかり続けていくようにとお命じになったのです。主イエスが定めてくださったこの食卓にあずかり、主イエスを記念し続けることによって、彼らは、主イエスの十字架の死によって実現する過越の完成の恵みにあずかり、罪を赦され、その支配から解放されて神様の民として生きていくことができるのです。

 私たちの信仰生活の中心は、主イエスによる救いの恵みを告げるみ言葉を毎週新たに聴きつつ主イエスの父である神様を礼拝し、その恵みの中で主の食卓に共につき、主イエスの十字架の死による過越の完成の恵みを味わいつつ生きることです。そしてこの主の食卓に共にあずかるところに、私たちの教会における交わりの土台、基礎があります。教会における兄弟姉妹の交わりは、世間のそれとは基礎が違います。私たちは、お互いよく知っているから、親しいから、気が合うから交わりを持っているのではありません。そういうことが私たちの交わりを成り立たせているのではないのです。教会には沢山の人々が集まっています。人それぞれ様々な違い、個性がありますし、それぞれ皆罪人であり、弱さや欠けのある人間です。だから気が合わなかったり、意見が食い違ったり、好きになれなかったりすることもあります。しかしそういうことが交わりを成り立たせなくするのでもないのです。私たちが教会において、交わりの絆の土台を持っているということ、それは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しという神様の救いの御業なのです。目に見えることとしては、主の食卓に招かれ、共に聖餐にあずかっている、という事実です。教会とは、主の食卓に共にあずかる群れなのです。私たちが自分からこの食卓につこうと思ったのではありません。主イエスご自身が、私たちを聖餐の食卓に招こうと、切に願ってくださったのです。そのために十字架にかかり、命を注いでくださったのです。この主イエスの命がけの恵みによって聖餐に共にあずかる者とされた私たちは、私たちの親しさや疎遠さ、気が合うとか合わないとか、仲が良いとか悪いとか、それらのことを乗り越えて一つとされるのです。主の食卓にあずかる群れとしての交わりを、ここに集っている者どうしの間に、主の導きによって築いていくことが、私たちに与えられている恵みに満ちた課題なのです。                                    閉じる