2020.12.13.待降節第三主日礼拝
  出エジプト記 第12章1〜20節、ルカによる福音書 第22章1〜13節

「過越の食事」

 わたしたちは、礼拝におきまして「ルカによる福音書」を順を追って読んできておりますが、きょうから22章に入ります。22章からいよいよ、主イエスの受難、十字架の死の話になります。

 主イエスの受難の話に具体的に入っていくのに際して、ルカが1節で確認しておりますのは、「過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」ということです。主イエスの十字架の死は、過越祭ないし除酵祭の時に起ったのです。これは単にそういう時期に起ったという季節感を示すための記述ではありません。この祭の持っている意味が、主イエスの受難、十字架の死と深く結びついているのです。

 この過越祭と除酵祭が、主イエス・キリストの十字架の死とどのように結びついているのか、そのことは、主イエスが弟子たちと過越の食事を共になさったことを語っているこの後の所、クリイスマス礼拝を挟んで再来週の礼拝において読まれる22章14節以下を読むことによって、はっきりと示されていきます。それは、主イエスこそ、私たちのために屠られた過越の小羊であられるということです。過越の小羊は、イスラエルの民がエジプトから解放され、神様の民として新しく生き始めるために犠牲となって殺されます。この小羊の死によって、神様による救いの御業が実現するのです。それはイエス・キリストの十字架の死によって、罪の奴隷であった私たちが解放され、救われたことと重なります。私たちは生まれつき罪に支配され、その奴隷となっている者です。

 私たちは、ともすれば、私たちに命を与え、様々な賜物を与えて養い導いてくださっている神様のことを見つめることなく、感謝することも、まして従うこともなく生きています。私たちを、実は神様に背き逆らう罪が支配しています。私たちはその罪の奴隷状態から、自分の力で抜け出すことができません。そもそも自分が罪の奴隷になっていることに気付くことすらなかなかできないのです。イスラエルの民がエジプトの支配から自らを解放することができなかったように、罪の支配は私たちをがんじがらめに縛り付けています。そこからの解放は、神様の力、み業によってしか実現しないのです。そのために神様は、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。それがクリスマスの出来事の大切な意味です。まことの神であれる主イエスが、私たちと同じ人間となってくださり、私たちの全ての罪を引き受け、背負って、十字架にかかって死んでくださったのです。イスラエルの民の初子の代わりに過越の小羊が死んだように、主イエス・キリストが私たちの身代わりになって死んでくださいました。この主イエスの十字架の死によって、私たちの過越が実現し、罪の奴隷状態からの解放、罪の赦しの恵みが神様によって与えられたのです。

 主イエスの十字架の死が、過越祭ないし除酵祭の時に起ったということは、それゆえに大変意味深いことです。イスラエルの民は、過越祭、除酵祭を守りつつ、主なる神様によるこの救いの出来事を記念し、感謝し、それにあずかる民として歩んできました。これらの祭が先取りし、予告し、指し示していた救いが、主イエスの十字架によってこそ実現、完成したのです。それゆえに、主イエスの十字架は、過越祭、除酵祭の時にこそ起るべきことだったのです。

 そのきっかけを作ったのがイスカリオテと呼ばれるユダでした。ユダの裏切りによって、主イエスは過越祭、除酵祭のさなかに十字架につけられることになったのです。3節に「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」とあります。それは、ユダの裏切りはサタン、悪魔の働きによって起ったということを意味します。ユダの裏切りは、彼が金目当てに人を裏切る極悪人だったとか、主イエスに恨みを抱いていたとか、あるいはむしろ主イエスがローマの支配からイスラエルの民を解放する救い主として立ち上がるのを促すために裏切ったのだとか、そういうユダの心の中の思いによってではなく、サタンの力、働きによって起ったのだ、ということです。このことは、サタン、悪魔の力によって、あろうことか十二人の弟子の中から裏切る者が出て、主イエスが捕えられ、十字架にかけられて殺されてしまった、その悪魔の支配の現実の中で、主イエスが私たちのための過越の小羊として、まさにその過越祭、除酵祭のさなかに死んでくださるという救いの御業が実現した、ということでもあります。神様の救いのご計画が、サタンの思い、力、策略をも用いて実現している、そのことをルカは語ろうとしているのです。

 祭司長や律法学者たちの殺意と、しかし民衆を恐れる思いをも超えて、また弟子たちの中の一人を裏切らせるというサタンの残酷な意図と力をも用いて、神様はイエス・キリストが過越祭、除酵祭のさなかに十字架につけられて死ぬという救いの出来事を実現しようとしておられます。

 この父なる神様の救いのご計画が前進していく中で、主イエスご自身も、過越の食事を用意してそこに弟子たちを招いてくださっています。その食事において、これは再来週読むわけですが、過越の小羊として十字架にかかって死んでくださった主イエスの救いにあずかり、また過越の小羊として流してくださった主イエスの血によって神様が結んでくださる新しい契約にあずかるための聖餐を定めてくださったのです。私たちは毎月その聖餐にあずかっています。この聖餐の起原は、主イエスが弟子たちを招いてあずからせてくださった過越の食事にあります。主イエスは私たちのためにこの聖餐の食卓を整え、招いてくださっているのです。主イエスの招きに応えて洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ生きるところにこそ、主イエスの十字架の死によって罪を赦され、その支配から解放されて、神様を愛し、そして隣人を愛して生きる道が開かれていくのです。

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