2020.11.29.待降節第一主日礼拝
  マラキ書 第3章1〜5節、ルカによる福音書 第21章20〜28節

「身を起こして頭を上げよ」

本日は、クリスマスに備えていくアドベント・待降節の第一の主の日です。きょうからアドベント・待降節に入ります。アドベントはクリスマスまでの日々を祈りをもって備えて行く期間です。

 いま読み進めているルカによる福音書21章には、この世の終わりに向けて起ることについて主イエスがお語りになったみ言葉が記されています。

 そのような話になったきっかけは、5節以下で主イエスが、エルサレムの壮麗な神殿に感心している人々に対して、この神殿の「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない」ように徹底的に破壊される日が来る、と予告なさったことでした。ユダヤ人たちにとってエルサレム神殿は、信仰の拠り所、民族のシンボルでした。それが崩壊することは、彼らにとっては全ての終わりを意味するような出来事だったのです。このことから話は一気に、この世界全体の終わり、終末についてのこと、その前兆や、どのような思いでそれに備えるべきか、という話になっていったのです。本日の20節以下もその続きですが、ここはもう一度、エルサレムの話に戻っています。

 その中で主イエスは、エルサレムは滅び、神殿は徹底的に破壊される、だから町に逃れるのではなくて山に逃げよ、あなたがたが救われる道は、エルサレムやその神殿にではなく、そこから離れ逃げることにある、とおっしゃったのです。つまり主イエスは、エルサレムが滅亡し神殿が破壊されても、それで全てがおしまいになり、世の終わりが来るのではない、その先になおあなたがたが生きる道があるのだ、ということをお語りになったのです。これが、ここに語られていることの中心です。そしてそれは、これまで読んできた所に語られてきたことのポイントでもありました。世の終わりに向けてどのような徴、前兆があるのか、という話の中で主イエスは、戦争や暴動、地震や飢饉や疫病というようなことが必ず起る、しかしそういうことによってこの世が終るのではない、とおっしゃいました。エルサレムの滅亡と神殿の破壊もその一つなのです。そういうことは起るが、それによってこの世が終わるわけではない、だから脅え、慌ててはならない、とおっしゃったのです。

 主イエスはここで、恐れや不安の中で慌て、脅え、惑わされそうな私たちに、本当に見つめるべきものは何かを示して下さっています。それが27節です。「そのとき、人の子が大いなる力を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。このことをこそ見つめなさい、と主イエスは語っておられます。「人の子」とは主イエスがご自分のことを呼ぶ言葉です。主イエスが、大いなる力を帯びて、雲に乗って来るのを人々は見る、と言われているのです。

 主イエスは捕えられ、十字架につけられて殺され、三日目に復活し、四十日後に天に昇られました。その主イエスが、将来、もう一度この世に来られるのです。それを「キリストの再臨」と言います。そのキリストの再臨こそ、恐れや不安の中で慌て、脅え、惑わされそうになっている私たちが見つめるべきものなのです。

 それはどういうことなのでしょうか。キリストの将来の再臨を見つめることが、今この世を生きる私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。「人の子が大いなる力を帯びて雲に乗って来る」という言葉にもう一度注目しましょう。「大いなる力を帯びて」とあります。

 主イエスがもう一度来られる時、主イエスは「大いなる力を帯びて」来られます。その「大いなる力」とは、神としての力です。神としてこの世界の全体を支配し、そして全ての人々を審く力です。審くというのは、救われる者と滅びる者とを分けることです。裁判官が裁判において有罪か無罪かを決めるように、審きにおいて人の救いと滅びとを決める、そういう権威と力をもって主イエスはもう一度来られるのです。その主イエスの大いなる力を帯びての再臨において最後の審判が行われ、それによってこの世は終ります。つまり主イエスがここで見つめさせようとしておられるのは、この世界は何によって終るのか、ということです。これまで、戦争や暴動や地震や飢饉や疫病、天体に徴が現れるとか、海がどよめき荒れ狂うといったことが世の終わりに向かって起こることとして見つめられてきました。そして、それらによってこの世が終るのではない、神の民の歩みはなお続いていく、本当に終りをもたらすものは別にある、と語られてきました。それでは本当に終りをもたらすものとは何か、それがこのイエス・キリストの再臨による最後の審判なのです。この世界は、主イエスが大いなる力を帯びてもう一度来られることによってこそ終る、そのことをこそ見つめよと主イエスは語っておられるのです。

 しかしこのことは、この世界は主イエス・キリストのご支配の完成をもって終る、ということです。つまり最終的に支配し、力を振るうのは、イエス・キリストだ、ということです。そしてそのイエス・キリストは、私たちのために、しかも神様に背き逆らっている罪人である私たちのために、既にこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して新しい命の先駆けとなって下さった御方です。イエス・キリストによる罪の赦しと新しい命、永遠の命の約束が、主イエスを信じる者には与えられているのです。その主イエスのご支配の完成をもってこの世は終る、それはこの世の終わりに主イエスによる救いの完成がある、ということです。キリストの再臨によるこの世の終わりを信じるとは、このように、キリストの十字架と復活による救いの完成がこの世の終わりに与えられることを信じる、ということなのです。このことを信じ、待ち望みつつ生きることによってこそ、またそのことによってのみ、私たちは、戦争や暴動や地震や飢饉や疫病、天体に徴が現れ、海がどよめき荒れ狂い、全てのものを押し流していくというこの世の現実の中で、慌てることなく、脅えることなく生きることができるのです。

                                   閉じる