2020.11.22.主日礼拝
 詩編 第42篇1〜12節、ルカによる福音書 第21章5〜19節

「いのちを獲得するために」

 きょうの聖書の箇所において語られているのは、終末について主イエスがお語りになった教えです。

 主イエスはきょうの聖書の箇所で先ず、壮麗なエルサレムの神殿が「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない」ように徹底的に破壊される日が来る、と予告なさいました。ユダヤ人たちにとってエルサレム神殿は、信仰の拠り所であり、民族の存在の基盤でした。それが崩壊することは、彼らにとってこの世の終わりを意味するような出来事です。この神殿崩壊の予告によって主イエスは彼らを、「この世の終わり」に直面させておられるのです。このことから始めて、主イエスはここで、この世の終わり、終末についての教えを語っていかれたのです。

 神殿崩壊の予告を聞いた人々は、「それはいつ起るのですか、どんな徴、つまり前兆があるのですか」と問いました。彼らは、神殿の崩壊に代表されるような破局、災いを恐れ、脅えつつ、それにどう備えたらよいのかを知りたいと願っているのです。この災い、破局に備えることが、この世の終わりに備えることだと思っているのです。

 そのような恐れを抱いている彼らに対して主イエスは9節で、「おびえてはならない」とおっしゃいました。この一言は大事です。恐れ脅えることは、この世の終わりを見つめ、それに備える信仰の正しいあり方ではないのです。

 なぜ主イエスは「脅えてはならない」などとおっしゃるのでしょうか。その根拠は、9節後半の「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」というお言葉に示されています。主イエスがここで語っておられることの中心点は、戦争や災害は必ず起るが、それが「世の終わり」ではない、ということです。戦争や災害のような破局、崩壊の出来事は必ず起る、それは人間の努力によって避けることはできない、しかしそういう崩壊、破局によって全てが「おしまい」になることはない、「終わり」はそれとは別のものによってもたらされるのだ、と主イエスは語っておられるのです。

 それでは、「この世界の終わり」は何によってもたらされるのでしょうか。そのことが21章の27節に語られています。27節に「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」、とあります。この「人の子」とはイエス・キリストです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られる、それはイエス・キリストのご支配が誰の目にも明らかな仕方で確立し、完成することです。この世界に終わりをもたらすのは、ということはこの世界と私たちを最終的に支配するのは、崩壊や破局をもたらす力、私たちを滅ぼそうとする力ではなくて、私たちの救い主イエス・キリストなのです。崩壊、破局による不安と苦しみの現実の中で、恐れ脅えることなく生きることができるとしたら、それはこの主イエスの再臨を信じる信仰、救い主イエス・キリストのご支配が確立、完成することによってこそこの世界が終わるのだということを信じる信仰によってなのです。

 12節に「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」とあります。「これらのことがすべて起る前に」の「これらのこと」とは、世の終わりに向けて起る戦争や暴動、民と民、国と国との対立、また地震や飢饉や疫病などの諸々の災いの全てを指していると言えるでしょう。それらが世の終わりの近いことの徴とされているわけですが、それらのことより前に起ることがある、と主は語っておられるのです。このように語ることによって主イエスは、世の終わりに向かっていく歩みの中で私たちが必ず体験することは、天災や人災による災いだけでない、それとは別の苦しみも必ず起って来るのだ、と教えておられるのです。それは一言で言えば「迫害」の苦しみです。人々があなたがたを、会堂や牢に引き渡し、王や総督の前に引っ張って行く、つまり捕えられて尋問や裁判を受けることになるのです。それは「わたしの名のために」です。主イエスの名のために、つまり主イエスを信じる信仰を理由として、捕えられ、裁かれるのです。信仰による迫害を受ける、ということです。

 19節に「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」とあります。 ここで使われている「忍耐」という言葉のもともとの意味は、何かの下に留まっている、ということです。忍耐するとは、そこに留まり続けること、言い換えれば、そこから逃げ出さないことです。信仰のゆえに受ける苦しみにおいてはこのことが何よりも大切なのです。

 主イエスは、信仰をもって生きる者がその信仰のゆえに必ず受ける苦しみを見つめさせ、忍耐してその苦しみの中に留まり、それを背負って生きるようにと私たちに勧めておられます。このことが、この世の終わり、終末についての教えの中で語られていることに注目したいと思います。様々な災害の苦しみを見つめつつ語られているのは、それらによってこの世が終わるのではない、ということです。この世界は、主イエスがもう一度来られ、今は隠されているそのご支配が誰の目にもあらわになり、完成することによってこそ終わるのです。だから、災害などの苦しみの中でも、「脅えてはならない」と言われていたのです。本日の所における、信仰のゆえの苦しみもそれと同じ流れの中で見つめられています。つまり迫害に代表されるその苦しみも、終末へと向かうこの世の歩みの中のみにおける苦しみなのであって、主イエス・キリストのご支配が完成する世の終わりにおいては、それらは全て解消され、取り除かれるのです。その終わりの時における救いの完成を信じ、それを待ち望むがゆえに、私たちは今この世においてその苦しみを忍耐し、逃げ出さずにその中に留まり続けることができるのです。そして終わりに日にはわたしたちに永遠の命に生きる道が与えられております。そのことを信じて希望をもって歩んでまいりたいと思います。                                    閉じる