2020.11.15.主日礼拝
 歴代誌上 第29章10〜20節、ルカによる福音書 第20章45〜21章4節

「銅貨二枚の献金」

 きょうの聖書の箇所において中心になっておりますのは、貧しいやもめの献金についてのことです。

 彼女が献げたレプトン銅貨は、ローマ帝国の通貨でとても小額の価値しかありませんでした。それは金持ちたちが献げた多額の献金に比べたら本当に取るに足りないお金です。いまで言えば数百円といったところでしょうか。当時は、夫を失ったやもめは、よほどの財産を亡き夫から受け継いでいない限り、基本的に収入のない、貧しい生活をせざるを得なかったので、親戚などに頼って養ってもらうしかなかったのです。ですから、このやもめにとっては、レプトン銅貨二枚であっても、とても大きな、貴重な、なけなしのお金だったのです。主イエスはそのことをしっかりと見て取られました。そして、「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」とおっしゃいました。金額で考えれば、金持ちたちが献げたものの方が彼女の献金よりもはるかに多額だったことは明らかです。しかしそれらの多額の献金よりも、やもめが献げた二レプタの方が「たくさんの献金」だと主は言っておられるのです。それはなぜでしょうか。

 それは、その献金がその人の生活において持つ意味の違いに目を留めておられるということです。金持ちたちは、有り余る中から献げている、金額は多いけれども、彼らの生活においてそのお金の持つ意味はそれほど大きくはないのです。それに対してあの貧しいやもめにとってのレプトン銅貨二枚は、「持っている生活費を全部」と言ってもよいほどの額なのです。その人の生活の中で持つ意味は、このレプトン銅貨二枚の方がはるかに大きいのです。「たくさん」とはこういう意味での「たくさん」なのです。

 献金においては、ただ単に多くの金額を献げることが大切なのではなくて、自分の生活にとってより多くの意味を持つものを、自分の命の、人生の時間のより多くを神様にお献げすることができることが大切なのです。このやもめの話はそのことを私たちに教えようとしているのです。

 この話における一つの大事なポイントは、彼女が、他の人のこと、他の人の献げものを一切見ておらず、ただ神様のみを見つめていることです。金持ちたちが多額の献金をしている中で、それよりもはるかに少ないレプトン銅貨二枚を献げることに彼女は何のためらいも、恥じらいも感じていません。いやそもそも、他の人がどれだけ献金しているかなどということに関心がないのです。彼女はそれを知る必要はないのです。信仰において大切なことは、他の人との比較をしないことです。

 私たちの信仰の根本は、神様の前に自分が一人で立つことです。その神様との交わりなしに信仰は成り立たないし、信仰者の共同体、キリストの体である教会も成り立ちません。他の人がどうこうではなく、神様の前に自分一人で立つことにおいてこそ私たちは、他の人と自分を比較しようとする思いから解放されるわけですし、また信仰に生きるとはそういう解放を求めていくことなのです。

    人との比較という感覚から自由になる、それは人の目を意識し、人がどう思うかを気にすることから解放される、ということです。そしてそれはひたすら神様を見つめ、神様の御前を、神様と共に生きることの中でこそ与えられます。そこに、20章45節以下の、律法学者に気をつけなさい、という主イエスの教えとのつながりが見えてきます。主イエスは、律法学者たちが、「長い衣をまとって歩き回りたがる」ことなどを批判しておられます。長い衣は、律法学者、宗教的指導者であることの印です。それを「まといたがる」のではなくて「まとって歩き回りたがる」、つまり人々に自分は律法学者だということを見せびらかしたがるのです。彼らは、神様の前に一人で立つことを失っているのです。放棄しているのです。神様の目、神様の思いよりも、他の人の目、人からの評判を気にして生きているのです。それは、人々に見える所で多額の献金を献げている金持ちたちとも通じる姿であると言えるでしょう。

 また、そういう金持ちの献金を「あの人はあんなに献金している」と感心したり、褒めたりしている人々も同じです。それらの人々と正反対なのが、あの貧しいやもめの姿です。彼女は、周囲の人々を見るのでなく、ただ神様のみを見つめ、信頼し、自分の生活の、人生の、一部ではなく全てにおいて神様と共に歩んでいるのです。この話が語っているもう一つのことは、そのような彼女の信仰における献げものを、主イエスがしっかりと見ていて下さり、受け止めて下さっているということです。自分の献金を人に知らせる必要はない、主イエスが知っていて下さるだけで十分ではないか、とこの話は私たちに語りかけているのです。

 彼女は本当の意味で自分の身を神様に献げています。献身しているのです。そのことによって彼女は、他の人と自分を比較することから全く自由にされています。他の人との比較によって一喜一憂することからの解放への道は、自分を神様にお献げすること、献身にしかありません。自分を自分のものとして保っている限り、つまり自分の主人は自分だと考えている限り、私たちは、他の人と自分を比較することから抜け出すことができないのです。しかし神様にこの身をお献げし、神様のものとして生きるなら、そこにはこの世における様々な比較、相対的な比べ合いから解放された本当の自由が与えられます。そしてそこには、神様の恵みと養いと導きの中で慰めと平安を与えられて、無理することなく、自然に、自分らしく生きる道が開かれていくのです。それは献身の信仰です。その信仰によって、人との比較からの解放が与えられるのです。

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