2020.11.8.主日礼拝
 詩編 第132篇1〜18節、ルカによる福音書 第20章41〜44節

「メシアはだれの子か」

 きょうのところで主イエスは律法学者たちに対して質問をなさいます。そこにおいて主イエスが取り上げたのは、人々が「メシアはダビデの子だ」と言っていることについてです。ここに「メシア」という言葉が出てきますが、「メシア」というのは、ヘブライ語で救い主という意味です。主イエスが生きておられた当時、人々はメシアと呼ばれる救い主が来ることを待ち望んでいたのです。主イエスはここで、メシア、つまり救い主とは誰であるか、という問題を取り上げておられます。これまでのところで律法学者たちが悪意ある問いによって人々の前で明らかにしようとしたのは、イエスは来るべきメシア、救い主ではない、ということでした。

 ここでの問題の中心は、主イエスが来るべきメシア、救い主であるのかそうでないのか、ということなのですが、そのことを問いかけていくのに際して主イエスが、「どうして人々は『メシアはダビデの子だ』と言うのか」という問いを発しておられることに、本日の箇所のポイントがあります。ダビデとはもちろん、昔のイスラエル王国の栄光と繁栄の基礎を築いた最も偉大な王ダビデです。来るべきメシア、救い主がそのダビデの子であるというのは、ダビデの子孫として救い主が生まれる、という預言によることです。

 主イエスはきょうの聖書箇所の42節から43節で旧約聖書の言葉、ダビデが歌ったとされる詩編の言葉を引用しておられます。「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と』」。ここに引用されているのは、詩編第110編の1節です。これは、来るべきメシアについて語っているものとして読まれてきた詩です。「主は、わたしの主にお告げになった」というところは、「主」という言葉が重なっていて分かりにくいですが、この二つの「主」は別の存在です。最初の「主」は主なる神様です。次の「わたしの主」の「わたし」はこの詩を詠んでいる詩人ダビデであり、ダビデが「わたしの主」と呼んでいるのが救い主のことです。主なる神様が、その「わたしの主」に対してお告げになったのが「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」というみ言葉です。つまり主なる神様が、「ダビデの主」である救い主に、敵への勝利を与えて下さり、彼をご自分の右の座に着かせて下さるのです。そのようにして主なる神様の力によって救い主が立てられることをダビデが預言して歌っているのが110編なのです。

 それでは主イエスはなぜこのような、問いをお語りになったのでしょうか。それは主イエスがここで「ダビデの子」「ダビデの主」という言葉に特別な意味を込めておられるからです。「ダビデの子」というのは、いま見てきたようにダビデの子孫という意味ですが、それはダビデの王位を受け継ぐ者、ダビデの業績、働きを継承する者、という意味でもあります。「キリストはダビデの子」と言った場合、救い主キリストはダビデ王の働きを受け継ぐ者だ、ということになるのです。それは見方を変えると、ダビデの働きを受け継ぐ者であってこそメシア、救い主だと言える、ということにもなります。つまり、その人がメシア、来るべき救い主であるか否かは、その人がダビデ王の働きを受け継いでいるかどうか、ダビデの後継者たるにふさわしい歩みをしているかどうかによって判断される、ということになるのです。すると次は、それを判断するのは誰かということが問題になります。それは聖書に詳しい人、ダビデの業績についてよく知っている人である、ということになり、それは当時で言えば、祭司長、律法学者、あるいはサドカイ派の人々といった、ユダヤ人の宗教指導者たちとなります。彼らが、ダビデ王の業績についての知識に照らして、この人はダビデの子と呼ばれるにふさわしいからメシアであるとか、この人はそうではないとかの判断を下すことができる、「メシアはダビデの子である」という言葉は、受け止め方によってはそういうことにつながっていくのです。そして実際、彼らは聖書についての知識という権威によって、主イエスを、「これはメシアではない」と判断していました。つまり彼らは、「ダビデの子」とはこういう者だという自分たちで設けた基準によって主イエスのことを判断していたのです。  42節で主イエスは、詩編の言葉を引いて、ダビデ自身がメシア、救い主を「わたしの主」と呼んでいることに目を向けさせておられます。主イエスは、律法学者たちに向かって、「ダビデが主と呼んでいるメシアはあなたがたにとっても主ではないのか」と問うておられるのです。あなたがたは、これはダビデの子としてふさわしいとかふさわしくないなどと言って救い主キリストを判断する権威が自分たちにあると思っている、しかしそれは神がお遣わしになる救い主に対する正しいあり方なのか、あなたがたが救い主として認めるとか認めないというのでは、主人はあなたがたで救い主があなたがたの僕ということになるではないか、しかし神が遣わすメシアはむしろあなたがたの主なのであって、あなたがたはその方に従うべき者ではないのか、そう主イエスは問うておられるのです。この問いは、私たちに対しても問われています。私たちも、自分の中に基準を設け、それに照らして主イエスのことを判断し、救い主として受け入れることができるとかできないなどと考えていることがあります。あるいは主イエスのこういう教えは納得できるがこれは受け入れられない、と判定してしまうこともあります。そこでは主人は私たちであり、私たちが自分の基準で救い主を判定しているのです。つまり主であられるはずのキリストが見失われているのです。

 救い主とは、わたしたちが自身が主人となり、自分たちの基準で判断できる相手ではなくて、むしろその方の前で膝まずき、服従し、その方によって自分を変えられていく、そういう出会いと交わりこそが、救い主を信じることであり、その救いにあずかることなのです。

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