2020.11.1.主日礼拝
 出エジプト記 第3章1〜6節、ルカによる福音書 第20章27〜40節

「生きている者の神」

      きょうのところでは復活について取り上げられています。福音書で復活のことがまとまった形でとりあげられているのはここくらいです。

 きょうのところで「サドカイ派」と呼ばれる人たちが登場します。サドカイ派はファリサイ派と並ぶユダヤ教の二大勢力でした。彼らは神殿で祭司のつとめを担っていました。彼らは聖書の中でモーセ五書と呼ばれる文書しか信じない人たちでした。モーセ五書とは創世記から申命記までの文書のことをいいます。彼らはモーセ五書のなかに「死者の復活」のことが記されていないと主張し、復活などはないと復活を否定していた人たちでした。彼らは、「死者の復活」などということを認めるといろいろと不合理なことが生じるとして、主イエスに対して論争を挑んだのです。彼らはその論争の材料として、ひとつの話を持ち出しました。旧約聖書の教えでは、ある夫婦に子供が生まれないままに夫が死んだ場合に子孫を残すために、その夫の兄弟がその兄嫁を妻として子供をつくり、その生まれた子を亡くなった兄(長男)の子供にするという決まりがありました。当時の考え方では、子供が生まれないということはその家庭に祝福が得られないということを意味していましたからそのようなことがなされたのです。その家系がずっと世代を超えて絶え間なく祝福を受けられるようにするためにそのようなことがなされたのです。なんとかして子孫を残すためにそのようなことまでなされたのです。これは、現代の感覚では受け入れることが難しいことではあります。そのことについて28節から33節にかけて、極端な例が挙げられています。  彼らはそのような極端な例を示して復活を否定しようとしたのです。七人の兄弟がいて長男から始まってすべての兄弟が子供を残さないで次々と死んでしまった場合に、兄嫁の女性は復活後に誰と結婚したことになるのかという質問です。実際はこんなことはありえないでしょう。これは議論のための議論です。実際には起こりえないことを仮定して議論をしています。しかし、この突拍子もない話を前にして、主イエスは彼らに真剣に反論なさいました。

 主は死者の復活を「この世」と「次の世」との対比で説明なさいました(34〜36節)。「次の世」とは、この世の終わりの日すなわち主イエスが再びこの世に来られて新しい天と新しい地が始まる日において開かれる世界のことです。神を信じる者でその日に既に死んでいる者は復活の命を与えられ、永遠の命に生きる道が備えられているとされています。この日が神の国が完成される日です。ヨハネの黙示録21章には、その日に新しい天と新しい地が始まり、わたしたちの目の涙をことごとく拭い取ってくださり、もはや死はなく、悲しみも嘆きもないとあります。

 次の世では、結婚することはなくなるのだ。死ぬこともないのだ。と主はおっしゃいます。人が復活して永遠に生きることになれば、子孫を残すために結婚することも必要ではなくなります。神を信じる者は神の子とされ天使に等しい者として永遠に神に仕えるのです。

 ところで、きょうの聖書の箇所の37節で主イエスは死者の復活の理由が旧約聖書に示されているとおっしゃいました。それもサドカイ派の人たちが最も重視するモーセ五書の中にある出エジプト記によって死者の復活を示そうとなさったのです(37〜38節)。37節にあります「『柴』の箇所」とは、先ほど一緒に読みました旧約聖書出エジプト記3章のところです。アブラハム、イサク、ヤコブはモーセよりもはるか以前に死んだ人たちです。しかし、38節で主イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とおっしゃっています。この世的に肉体的に死んだ者でも神が、「わたしは生きている者の神だ」とおっしゃる以上は、神様にとってアブラハムやイサクやヤコブは生きている者とみなされるのです。神は彼らが肉体的に滅んでからもなお彼らを愛し慈しんでおられるのです。彼らを生きている者として愛してくださるのです。

    38節の後半に「すべての人は、神によって生きているからである」とあります。これは直訳しますと「神に対して生きている」となります。口語訳聖書では「人はみな神に生きる」と訳されています。人は神に対して生きる、神との関係において生きる、神との交わりに生きるということです。アブラハムやヤコブ、イサクは死んでもなお神との愛の交わりの中で生きているのです。

 もともと生まれながらの人間は神に対して生きる者ではなく、罪に対して生きる者です。

しかし、そのような人間の罪が赦されるため、神に対して、神との交わりの中に生きられるようにするために天の父なる神様は愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられ、復活させてくださいました。このキリストの復活こそが、神を信じるわたしたちが終わりの日に復活の命を与えられる根拠であり保証となっているのです。

 ところで、終わりの日に与えられる復活の命とはいかなるものなのでしょうか。復活のからだはどのようなものなのでしょうか。わたしたちは、復活を考えるときにこの世の延長で次の世のことを考えてしまいます。終わりの日以降の次の世界、神の国が完成した世界におけるわたしたちのからだは今の世界の延長線上にあるのではありません。そこには明らかな断絶があります。違いがあります。しかし、不安に思うことはありません。復活の命を与えてくださるのは神様に他ならないのですから、すべては神様にお委ねするべきです。神様は、わたしたちが思いもよらない仕方で新しい霊のからだを与えてくださるでしょう。

 わたしたちは神様から復活の命にあずかって生きる希望を与えられています。そのことに感謝して、神の国の福音をこの世に広く伝えて行くことができるように祈り求めてまいりましょう。

                                     閉じる