2020.10.25.宗教改革記念礼拝
詩編 第96篇1〜13節 、ルカによる福音書 第20章20〜26節

「神のものは神に返しなさい」

      きょうのところで最初に出てまいります「彼ら」とは、誰のことを指しているのでしょうか。それは主イエスをなき者にしようとしていた律法学者たちや祭司長たちです。きょうの話は前回のところとつながっています。彼らはなんとかして主イエスを罠にはめようとしました。彼らは税金についての質問をして、主イエスを窮地に追い込もうとしました。彼らは、「正しい人を装う回し者たち」を主イエスに差し向けます。22節

 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

 この皇帝とはローマ帝国の皇帝のことです。当時イスラエルの国はローマ帝国に支配されており、ローマ帝国の植民地でした。異邦人であるローマ帝国に税金を納めることはイスラエルの人たちにとっては屈辱的なことでした。主イエスに対してなされた質問に対して、もし主イエスが「税金を納めるのは律法に適っていない、払う必要はない」などと答えれば、主イエスはローマ帝国に逆らう者として、イスラエルを支配しているローマ帝国総督に逮捕され死刑に処せられたことでしょう。これは20節にありますが、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした とある通りです。一方「税金を払え」と言えばどうなるか。主イエスをローマ帝国の支配から解放してくれる政治的な意味でのメシア救い主として期待していた民衆の失望を招き、民衆の心が主イエスから離れてしまうことになります。また、さらに深刻なことには、当時、熱心党と呼ばれていた過激派の人たちから主イエスが攻撃を受けて殺される危険性がありました。熱心党の人たちは武力でローマ帝国からの解放を唱えて活動する過激な人たちだったからです。

 この質問は、どっちに答えても問われた側が窮地に陥ってしまう質問であり、質問者から見れば実に巧みな、よく考えられた質問だったのです。しかし、主イエスは彼らの悪巧みを見抜いて逆に彼らに質問されました。24節「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らはすぐに「皇帝のものです」と答えました。当時のデナリオン銀貨は、表にも裏にも「肖像と銘」がありまして、表のほうは皇帝カイサルの横顔と銘が、それから裏のほうには、カイサルの母親リヴィアの肖像がありまして、「大祭司」という銘が刻まれておりました。ですから、相手はすぐに「皇帝のものです」と答えたわけです。そのあと主イエスは「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」とおっしゃいました。主イエスは、デナリオン銀貨が皇帝のものであるならばそれを返すのは当然だとおっしゃっているのです。主イエスは当然のことをおっしゃったまでです。結果的に言えば納税することになるのですが、直接的に最初から「納税しろ」という意味ではないのです。主イエスはまことに見事に彼らの攻撃をかわしたのです。こうして主イエスを罠にはめようという祭司長たちの目論見は見事にはずれました。

 それでは「神のものは神に返しなさい」というときの「神のもの」とはどういう意味なのでしょうか。このことは前回のところ、「ぶどう園の話」とつながっています。前回のところでは、自分のものでもないぶどう園を農夫たちが自分たちのものにしようとしたという話でした。ぶどう園の主人は、神様にたとえられていました。この世にあるものはすべて神様がお造りになったものであり、神様のものです。わたしたちの身体も神のものです。わたしたちの持っているものは神様のものなのです。おカネも財産も、地球も自然環境も神のものです。わたしたちが自分のものだと思っているものはすべて神様のものなのです。

 神様はわたしたちをキリストのものとしてくださるほどにわたしたちを愛して、恵みを豊かにお与えくださり、様々な配慮をしてくださっております。そのことがわたしたちにとって、生きるにも死ぬにもわたしたちのただひとつの慰めなのです(「ハイデルベルク信仰問答」第一問と答え)。

 父・子・聖霊の三位一体なる神はわたしたちをご自分のものとしてくださっています。ご自分のものとしてくださっているということは、「ハイデルベルク信仰問答」の答えにありますように、わたしたちの深い罪をあがなってくださり、悪魔の力から解放してくださり、わたしたちを守ってくださり、万事が益となるようにはからってくださるということです。そしてまた神様はわたしたちに永遠の命に至る道をも備えてくださるのです。このことがわたしたちが生きるにも死ぬにもわたしたちの慰めでなくてなんでしょうか。

 それではわたしたち自身をも含めた神様のものを神様にお返しするとはいかなることなのでしょうか。それはこの世のものすべてが神様のものであり、神様がこの世のすべてを支配なさっていることを信じ、わたしたち自身を神様にお献げしていくこと、神に仕え、主の御後にお従いして行くことです。神様はそのことをなによりもお喜びになります。

 きょうのところの24節に「肖像」という言葉があります。創世記1章27節に「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」とあります。ここで「肖像」という原典の言葉は、この「かたどって」と同じ意味で使われています。

 わたしたち人間が「神にかたどって、神に似せて」造られたということは何を意味するのでしょうか。それは神に向き合って神と相対して生きるということ、神と対話して生きる、神に祈りを献げて生きるということです。わたしたち人間は神を崇め神に祈りを献げていくものとして造られたということです。わたしたちは神の像を刻まれた者として、神のものとしてくださっていることに感謝して、大きな慰めをお与えくださっていることに深く感謝して、たびごとに神に向き直り、悔い改めて、主ににお従いしていくことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

                                     閉じる